2013年02月の一覧

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2013年02月06日

感情を失った時代(2)

 話が広がってしまって恐縮ですが、この間、びっくりするようなシンポジウムのお知らせを見つけてしまったので、記しておきたいと思います。

「維新政党 新風」という、最近よく聞くとある政党と見間違うような名前の団体が2009年に開いていた「教育における体罰を考える」シンポジウムの呼びかけには、次のように書いてありました。

体罰は教育?

子供のための体罰は教育!

罰は子供を強くするため、
進歩させるために行われます。
「叱るよりほめろ」では子供は強く
なることができません。
いかに多くの罰を受けたかが
優しさを決めます。
人のことを思いやる力をつけるには、
体罰は最も有効です。

 まるで、昨年12月にブログ『生い立ちと人格』で紹介したヒトラー家を思い出させるような恐ろしい考えです。「多くの罰を受けた方が優しくなれる」という発想も受け入れることはとうていできません。
 
 さらに知りたい方はどうぞ同政党のサイトをご参照ください。余談ですが、このシンポジウムの第一部である対談に登場したのは、当時東京都知事だった石原慎太郎氏とジャーナリストの櫻井よしこ氏でした。

いじめ自殺と同じ構図

 ・・・ということで話を本筋へ戻したいと思います。
 大阪市立桜宮高校の体罰事件についてです。

 事件をめぐっては、ついこの間までマスコミを席巻していたいじめ事件同様、学校(教職員)や教育委員会の隠蔽体質を責める声が強く聞こえます(『産経新聞』2013.1.11)。そして「だから教育委員会には任せられない」と叫ぶ首長が登場するのも、同じ構図です(『産経新聞』1月15日)。

 こうした「首長(政治)主導の教育へ!」という主張の先頭に立っている橋下大阪市長がずっと体罰(子どもへの暴力)容認派であったことは、すでにブログ(「生い立ちと人格(5)」)にも書きましたし、その語録を拾うこともできます。

 橋下氏はこの事件で自殺した生徒の保護者と面会した後の 記者会見では「自分の考えは間違っていた」と反省したとの発言をしていますが・・・。

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2013年02月12日

感情を失った時代(3)

 しかし、学校や体罰を行った顧問、教育委員会に責任を負わせれば体罰事件は解決するのでしょうか?

 桜宮高校では、その後バレー部顧問による体罰も報道され(『朝日新聞』2013年1月10日)、記事では同校の校長が「今後は体罰を一掃するため、部活動の顧問以外に悩みを相談できる窓口の設置などをあげた」と書かれていますが、こうした窓口があれば体罰は無くなるのでしょうか?

 答えは「否」だと思います。

なぜだれも救えなかったのか

 同事件をめぐる報道を見ていると、自殺した生徒は友達や母親などに体罰を受けたことを話しています。また、顧問が体罰を行っていることをほかの教師や校長も把握していたとの話も出ています。

 つまり、「窓口」はなくても、生徒は最も身近にいるおとなたちに自分の窮状を訴えていたし、周囲のおとなも生徒の危機的状況を認識していたわけです。

 それにもかかわらず、だれも生徒を救うことはできませんでした。いったいなぜ、だれも生徒の死を止められなかったのでしょうか。

 どうして生徒の周囲にいるおとなは体罰を目撃したり、「今日も殴られた」と語る生徒に対して、「そこまでして部活を続ける必要なんてない!」「生徒にそんな思いまでさせて強いチームにならなくていい!」と言ってあげることができなかったのでしょうか。

 顧問は暴力を使ってまで強くなることに固執しなければならず、生徒は自殺をする前に「部活を辞める」という選択をなぜできなかったのでしょうか。

もし自分なら声を上げられたか?

 私はけっして「母親にも責任がある」とか「生徒自身にも落ち度がある」などと言うつもりはありません。

 ただ、だれかを悪者にしたり、顧問だけを責任追及して終わりにするのではなく、「どうしてだれひとり、『ここまでして強くなろうとするのはおかしい』と声を上げることができなかったのか」を考えたいと思っているのです。

 「辛い」とか「恐い」とか「ひどい」などの感情を封じ込め、結果的に体罰を容認し続けてしまったのはどうしてなのか。
 そして、もし自分だったら、同じ環境の下で体罰を止めるよう声を上げることができたのか。

 その問いの向こうにこそ、私たちの社会が体罰を根絶できない理由があると思うからです。

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2013年02月18日

感情を失った時代(4)

 あの環境下にいたら、おそらく私も体罰を止めるのは難しかったのではないかと思います。

 もし、私が教師だったとしたら、スポーツで学校の名を上げ、生徒の大学進学にも貢献し、校長からも一目置かれている顧問に「あなたのしていることはおかしい」と声を上げるのはかなりの勇気が必要でしょう。
 
 一方、もし私が保護者だとしたらどうでしょう。
 桜宮高校に子どもが入り、世間でも「強豪」で知られる部活を子どもが続けるからには、保護者としても一定の覚悟をしているはずです。その心の底には、「子どもに部活動で活躍して欲しい」という思いもあるでしょう。

「うまく行けば大学の推薦がもらえるかもしれない」「将来的にスポーツの世界で食べて行けるようになるかもしれない」などと、きっと考えたことでしょう。

『週刊文春』の記事

『週刊文春』(2月7日号)には、「自殺した生徒の母親が子どものスポーツ教育に熱心だったことや、大学の推薦が取れると考えていた」といった趣旨の記事が載っています(週刊文春の桜宮高校バスケ部体罰問題に関する記事がひどすぎる)。
 
『週刊文春』は、子どもの権利条約に基づく第1回目の日本政府報告書審査時に、国連でプレゼンテーションをした子どもたちの発言や国連委員の反応を、悪意を持ってねつ造した雑誌です。

 後日、事実を知る私たちが抗議をしたときも「担当者不在」などと言い続け、まったく責任を取ろうとはしませんでした(ご興味のある方は、ウィキペディアの週刊文春の項目内「問題のあった記事・注目を浴びた記事」の1998年の部分をご参照ください(ウィキペディアの週刊文春)。

 こうした私の経験から言っても、文春の記事をすべて真実と受け止めるのはいささか危険だと思いますが、自殺した生徒の母親がスポーツ教育に人一倍熱心だったとしても、なんら不思議なことだとは言えないのではないでしょうか。

もし私が高校生だったら

 そしてもし、私がスポーツで強くなることを何よりも大事だと考える環境で生きている高校生だったとしたら・・・。自ら「もう嫌です。部活を辞めます」と言えたでしょうか。
 きっと無理だったと思います。

 社会経験も少なく、自らの価値観も形成途中で、周囲のおとなに頼らなければ生きられない子どもにとって、学校や周囲のおとなは全世界と呼んでも過言ではありません。
 それ以外の価値など、よっぽどのことがなければ持ちようがありませんし、その世界から外れること、その世界に受け入れてもらえないことは、この世の終わり・・・つまり死を意味します。

 だからこそ、学校から排除されるいじめや、おとな不信に陥る虐待が、あれほどにまで子どもに大きなダメージをもたらすのです。

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2013年02月25日

感情を失った時代(5)

 ではなぜ、おとなたちは子どもをそんなところまで追い込まなければならないのでしょうか。おとな自身も、本当は感じていたはずの戸惑いや、疑問、さまざまな感情を封印してまで、子どもの尻を叩かなければならないのでしょうか。
 何よりも大切なはずの命を犠牲にしてまで、子どもに結果を要求しなければならないのでしょうか。

成果や利益を求める社会の必然

 それは社会が目に見える成果や利益をあまりにも求めるからです。

 競争を前提とした世の中で、自分で自分の面倒をきちんとみることができる、福祉や他人に頼らない人間を求めるからです。少しでも早く自立し、自分の生活は自分だけでまなかえる人間を“よし”とするからです。
 
 そうした社会では、自活できない者、他者に支えてもらわなければならない存在はダメな存在だとみなされます。

 だから多くのおとなは、「子どものため」という善意から、子どもが生き残っていくための術を少しでも早く教え込もうとします。子どもが、競争の荒波に飲み込まれず、生き残れる人間になれるよう、厳しい訓練を施そうとします。

子どもの気持ちは後回し

 そこでは子どもの思いや気持ちは、後回しです。
 いえ、たとえ子どもの気持ちに気付いたとしても「こんなことでへこたれてどうする!」と、叱咤激励することこそが愛情だと勘違いしてしまいます。

 そして、それが愛情だと信じている限り、子どもを厳しく訓練し、言うことをきかせ、子どもを奮い立たせる体罰は絶対に無くならないのです。

体罰は「暴力を使った“指導”」

 桜宮高校での体罰事件が発覚してから、「暴力と体罰はどう違うのか」とか「どこからが体罰なのか」とか「体罰なしの教育などあり得るのか」などという議論が盛んに行われていましたが、極めてばかばかしいことです。

 体罰は「暴力を使った“指導”」に他なりません。そして“指導”とは、力を持っておとなの都合や価値観を子どもに植え付け、言うことを聞かせるための支配に過ぎません。
 
 だからこそ、第3回の子どもの権利条約に基づく日本政府報告書審査で(2010年)、国連「子どもの権利委員会」委員が、さんざん疑問を呈したのです。

「“指導”としつけ、虐待はいったいどう違うのか?」と。

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