2013年01月の一覧

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2013年01月15日

新年のご挨拶にかえて(1)

 新年、あけましておめでとうございます。

今年もまた、さまざまな思いをこのブログでお伝えしていきたいと思いますので、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

高支持率の新内閣

 年末に新内閣が登場し、世の中は安倍晋三首相への期待感があふれています。いくつかの内閣支持率調査を見ましたが、どれも60%を超える高い支持率でした。だいたい新政権発足時には高く、次第に下がっていくのが常ですが、それにしても高い数字です。

 民主大敗に終わった前回の選挙。それを受けての自民圧勝の背景には、安倍首相の「日本を、取り戻す」というCMの効果があったという指摘がありますが、こうしたCMの余韻が支持率にも影響を与えているのでしょうか。

自民党の選挙CMの分析

『東京新聞』のこちら特報部では立命館大の東照二教授(社会言語学)は「人間が物事を認知する仕組みは基本的に直感的、感覚的で、繰り返されるものに反応する性質がある」と説明した上で「くどくどと政策を説明するのではなく、短いフレーズを効果的にリフレインする手法。有権者に分かりやすく新鮮な印象を与え、有権者の投票行動に結び付きやすかったのでは」と分析しています。

 また、CMの中で「取り戻す」と言っているはずの安倍首相の言葉が「とりもろす」にしか聞こえない部分があったことも、親しみやすさや、きまじめなイメージにつながると選挙プランナーの野沢高一氏は指摘しています。

 さらに京女子大学の李津娥(イージーナ)教授(広告・メディア論)は、この「取り戻す」の意味に注目。
「有権者それぞれが思い描く『日本の良かった時』のイメージを持ちやすい」と言うのです。

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2013年01月21日

新年のご挨拶にかえて(2)

 確かに自民党という党自体に、安定感や安心感を覚えるという気持ちは理解できます。戦後、長い間、与党として日本をひっぱり、高度経済成長時代をもたらしたのは自民党です

 がんばればがんばった分だけ報われたあの時代。
 努力すれば夢が叶うと信じられたあの時代。
 だれもが学校に行けさえすればそれなりの学力を付けられたあの時代。
 文句を言わず、上に逆らわずに従っていれば、それなりに出世できたあの時代。
 社会からはみ出るような行為をしなければ、何らかのおこぼれにあずかれたあの時代。

「そんなあの頃に戻りたい」という郷愁に似た思いは私も同じように持っています。

 しかし、こうした自民党がつくってきた施策、社会の先に「今」があることも真実です。民主党が破壊したものも大きかったとは思いますが、安倍首相がCMで語った「豊かな教育を受け、誰もが安心して生活できる」日本とは違うところに国を導いてきたのも自民党でした。

イメージだけでの支持は危険

 その現実を忘れ、イメージだけで支持をするのはやはりとても危険なのではないかと思います。
そして以前の安倍首相政権下で、安倍首相が取り組んだ施策の数々をみれば、再びの政権掌握によってもたらされるのがはたして「豊かな教育を受け、誰もが安心して生活できる」日本なのかは疑問です。

 甘言に乗せられず、イメージにまどわされず、真実を見極める目を磨きながら、本年もこのブログを続けていきたいと思っています。 

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2013年01月28日

感情を失った時代(1)

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の男子生徒が、顧問の男性教諭から体罰を受けた翌日に自殺した事件が話題になっています。

 この事件を受け、文部科学省は全国の教育委員会などに体罰の実態調査実施を指示するとともに体罰を行った教員らへの厳正な対応を求める通知を出しました。
 
 マスコミは連日、体罰に反対する評論家やコメンテーターの意見を報道。かつては体罰容認派であった大阪市の橋下市長も、亡くなった生徒の家を訪ねて遺族に謝罪し、その後の記者会見で「考え方を改めないといけない。反省している」と述べるなど(『東京新聞』2013年1月13日)、「体罰禁止」の声が高まっています。

一定条件下での体罰は必要?

 こうした中、「それでも体罰は必要」と言う勇気ある意見を見つけました。「一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる」(『産経新聞』産経新聞 1月27日)。

 個人的には、同記事の執筆者にはまったく共感できませんが、「なぜ体罰が無くならないのか」を考える上ではとても参考になるのではないかと思いますので、ご興味のある方は、ぜひサイトをご参照ください。

 今の世論の流れを見て「今は体罰容認の発言は控えよう」と思っている政治家や識者の方々の中には、この記事の執筆者のような考えの持ち主が多くいるのではないでしょうか。

 執筆者は「ケガをさせない」とか、「1発だけに限る」などの条件下で、「ねじれた心を正すため」の体罰は必要だと述べています。そうした部分にもいろいろと突っ込みどころはありますが、何よりもまず子どもの問題行動を「ねじれた心によるもの」と思うところに、すでに大きな間違いがあります。

子どもには暴力を見分ける力がある

 うまく言葉に出来ないから、本当は分かって欲しいから、さまざまな問題行動というかたちで子どもはメッセージを発します。それを「ねじれた心を持っている」と判断し、力で押さえつけようとするおとななど、子どもが信頼できるはずがないではありませんか。

 弱い立場に置かれた子どもという存在は、自分への愛情が高まってほんとうにごくごくまれに“思わず”手が出てしまったのか、おとなの価値観を押しつけるために“おとなの都合”で暴力を使っているのかを瞬時に見分ける能力を備えています。

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