2012年04月の一覧

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2012年04月02日

暴力的な社会(5)

 本当に辛く、悲しく、残酷なことですが、奪われてしまった命や傷つけられた事実は何をしてももとには返りません。残念としか言いようがありませんが、たとえ加害者にその命を持って償ってもらったとしても、奪われた被害者の命が戻ってくることはないのです。

 その事実を受け止めざるを得ないのであるとすれば、遺族や被害者にとって真に必要なことは、その現実を受け止め、存分に悲しみ、「もう一度幸せに生きて行いこう!」と思えるような手助けすること。遺族や被害者と共に泣き、怒り、「あなたはひとりではない」という実感を与えること。失ったものをちゃんと過去のものにして新たな一歩を歩み出せるように支えること。

 そうしたことこそが、私たち周囲の人間にできる遺族や被害者への支援なのではないでしょうか。

 少なくとも、遺族や被害者の被害感情をいたずらにあおり、憎しみに定着させ、恨みを糧とし、失った関係性をよすがにして過去の幸せだけを眺めながら生る人生の中に閉じ込めてしまう・・・そんな残酷なことをすべきではありません。

被害者や遺族の疑問に応えるには

 深い傷を負った遺族や被害者が、辛い現実を乗り越えていくためには、「どうして自分(もしくは最愛の人)がこんな目に遭わなければならなかったのか」を知る必要があります。
 
 なぜ、なんの落ち度もない最愛の妻が理不尽にもその生命を絶たれねばならなかったのか。なぜ、罪の無い幼子が将来を絶たれねばならなかったのか。なぜ、加害者はこんな残酷な仕打ちをしたのか。それが分からない限り、たとえ加害者が死刑になっても被害者は救われません。

 大勢の被害者やその家族と接してきたある裁判所調査官の方は、自身の長い職業上の経験から、こんな話をしてくださったことがあります。

「被害者やその遺族が知りたいのは、『自分の大切な人が、なぜそんな目に遭わなければいけなかったのか』ということ。その疑問に応えるためには、被告人がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか、などが明らかにされる必要があります」

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2012年04月09日

暴力的な社会(6)

「加害者がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか」

 そういった被害者の方々が当然抱く疑問を明らかにすること。加害者の生育歴を丹念に調べ、人格形成との関係を検討すること。どのような環境が人を犯罪へと向かわせるかを考えること。・・・それは、被害者の方々を救うだけではありません。

 安全な社会をつくっていくうえでも、とても重要です。

加害者に語り尽くしてもらうことが大切

 加害者を死刑にしてしまえば、私たちの社会は「なぜそんな反抗に及ぶ人間が生まれたのか」「どうして犯行を止められなかったのか」という重要な情報を手に入れる機会を失います。「どのような社会になれば犯罪者が減り、多くの人が幸せに生きられるのか」を知ることもできなくなります。

 加害者がどのように育って、なぜ犯行に及んだのか。何があれば犯行を思い止まることができたのか。どういう環境や関わりがあれば人間はうまく育つことができるのか。こうしたことを明らかにするには、加害者に語り尽くしてもらうことが不可欠です。

育ちと犯罪は深い関係にある

 光市母子殺人事件の加害者も、子ども8名を殺害し、教諭2名と子ども13名に障害を負わせた大阪教育大学附属池田小事件(2001年)の宅間守死刑囚も、虐待され、傷つけられ続けた子ども時代を持っていました。
 また、2008年に起きた土浦連続殺傷事件や秋葉原通り魔事件でも、加害者らが不適切な養育を受けていたことが知られています。

 心理学的視点に立てば、生育歴、家庭環境、社会環境と犯罪が関係していることは火を見るよりも明らかです。

何が正義か?

 だからもし「重罪を犯した者に対しての正義とは?」と問われたら、私はこう答えます。

「加害者に、その胸の内をすべてつまびらかにできる時間と環境を保障し、その育ちを徹底的に解明することによって二度と同じ悲劇を繰り返さない(被害者を生まない)努力をすることこそが、正義なのだ」と。

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2012年04月18日

暴力的な社会(7)

 逆に、一見、正義のように見える加害者を死刑などの厳罰に処すこと。
 すなわち、加害者だけに責任を負わせ、犯行の背景を一切語れぬように「口をぬぐう」こと。
 加害者が「なぜ犯行に至ったか」を注視せず、「やったこと」のみに焦点を当てること。
 加害者が犯行に至るまでの間、加害者を救う努力をしてこなかった社会の責任を放棄すること。
 
 それは、加害者のような人間を生み出した社会・環境の問題を温存させるだけでなく、多くの人々を憎しみと恨みの中に定着させ、さらなる破壊的な社会へと人々を邁進させる暴力の連鎖を強めることになります。

最高裁の罪深さ

 こうして改めて考えると、最高裁が光市母子殺人事件の判決で「とくに酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」と、犯行時18歳であっても「原則として死刑適用」という新たな判断の枠組み示したことが、いかに罪深いことであるのかが分かります。

 “最後の正義の砦”たるべき最高裁が、憎しみと恨み渦巻く暴力的な社会を後押ししてしまったのです。国の価値観を決定する最高裁が、社会の責任を放棄し、すべてを個人の責任に決着させて良いと判断したのです。
 そして結果的に、暴力的な社会が変換する機会を潰してしまったのです。

罰されるべきは社会

 まだまだ書きたいことはありますが、今回はひとまず非行(犯罪)と子ども、そして社会との関連について鋭い指摘をした2人の賢人の言葉を借りて、終わりにしたいと思います。

 臨床心理学修士であり、アメリカのカリフォルニアで心理療法に当たっているジェーン・スウィガードは著書『バッド・マザーの神話』(誠信書房/309ページ)で、こう言っています。

「私たち(おとな)の行動が真に破壊的になると、子どもたちはギョッとするような悲劇的なやり方で警告してくれます。ティーンエイジャーの自殺やうつ病、暴力事件の増加や学校における不幸な薬物の蔓延などで、このような現象は低年齢化し、今や思春期前の子どもの間にまで広がっていきます。子どもたちの行動の意味するところや子育ての心理的現実を探ることによって、私たちの止める時代が抱える病弊のより深い意味を理解することができるのです」(下線部は筆者が加筆)

 そして、イギリスの哲学者で経済学者でもあるジョン・スチュワート・ミルは、すでに1800年代にかの有名な『自由論』で、こう指摘しています。

「社会が子育てに失敗し、非行者を生み出してしまうとするなら、そのことについて責められるべきは社会自身である」

 賢人達の声に耳を貸さず、厳罰化を進めることは、実は私たち自身さえも脅かす、今よりももっと暴力的な社会をつくることにつながるのです。

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2012年04月27日

福祉から遠い国(1)

『「福祉」が人を殺すとき』(寺久保光良著・あけび書房)

 まだバブルが弾ける前、多くの人が「景気は上り調子だ」と信じて疑わなかった1980年代。そんな時代に、各地で福祉につながれずに餓死や自殺が起きていることを綴ったルポルタージュのタイトルです。

 同書に登場する北海道札幌市で、3人の子どもを残して餓死したとされる女性の事件については、福祉行政の責任とはまた違った問題があったことが、後になって分かってきましたが(詳しく知りたい方は『ニッポン貧困最前線 ケースワーカーと呼ばれる人々』久田恵著・文藝春秋社をご一読ください)、それを差し引いても日本の福祉行政の問題点がよく分かる一冊です。

出会ったときの衝撃は今も

 ちなみに、私が同書を知ったのはまだ学生だったとき。偶然、図書館で目にした本でしたが、このタイトルに出会ったときの衝撃は今も覚えています。
「日本は平和で豊かな国だから、将来は飢えて亡くなる人もいる国の援助をしてみたい」などと寝ぼけたことを考えていた私の目を覚ましてくれた1冊でした。

 おそらく、この本に出会わなければ、私がホームレスの方々の支援に関わったり、差別問題について学んだり、福祉行政についての取材をすることはなかったことでしょう。

 もしかしたら、ホームレスの方々との出会いによって知った「依存症」というものの存在。そこから生じた「人の心のありよう」についての興味、人格形成や人間の成長・発達に何が必
要なのかという疑問とも出会うことが無かったかもしれません。

『池袋母子 餓死日記』

 さらにもうひとつ、豊かさについて、福祉について考えさせられた一冊をご紹介したいと思います。『池袋母子 餓死日記 覚え書き(全文)』(公人の友社編)です。

 1996年、東京の豊島区池袋のアパートで77歳の母親が41歳の息子と共に餓死するという事件が報道されました。同書は、その当事者である母親が亡くなるまでの数年間の生活や思うことを書き綴った日記です。

 バブルが崩壊し、仕事をめぐる状況は厳しくなったものの、まだまだ日本が「飽食の時代」を享受していた時代、やはりこの事件は世間に大きなショックを与えました。

 この春、私はこれらの本を十数年ぶりに手に取り、ページを繰りました。

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