2012年03月の一覧

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2012年03月01日

暴力的な社会(1)

 今年になってから、「少年による事件」について、また「暴力」というものについて、深く考えさせられるニュースがありました。

 ひとつは、京都府福知山市の市動物園の猿山に大量の花火を投げ込んだとして、同市内の18歳の少年5人が書類送検されたというニュース。送検容疑は、「1月3日午前6時半ごろ、猿山(26匹飼育)に侵入し、見学通路から柵越しに点火したロケット花火などを投げ入れ、1匹の鼻をやけどさせたこと」でした。

 もうひとつは、山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審です。最高裁が上告を棄却し、犯行当時18歳1カ月の少年の広島高裁判決である死刑が確定したというニュースです。

少年たちに対して

 猿山に花火を打ち込んだ少年らの逮捕を知らせるニュースや情報番組では「命の重さを分かって欲しい」「おもしろ半分で動物を虐待するなど許せない」などという言葉が聞かれました。

 また、光市の母子殺人事件では、最高裁は「刑事責任はあまりにも重大で、死刑を是認せざるを得ない」として「少年であることは死刑を回避すべき決定的事情ではない」と述べて無期懲役判決を破棄した高裁判決を踏襲するものとなりました。

 これらの報道を見聞きし、「なんて暴力的な社会になってしまったのだろう」とつぶやかずにはいられませんでした。
 いずれの場合も、少年らの抱える事情や思い、少年を取り巻く環境などがほとんど考慮されていないように思えてならなかったからです。

命の大切さを唱えても無駄

 命を大切にできない、他者の痛みに共感できない最も大きな原因は「自らの存在を大切にされ、その痛みに共感してもらった経験の欠如」です。言い換えれば、自らの命に、自らの存在に価値を認めてもらえた人間は、命を粗末にするようなことなど絶対にしません。

 もし、おもしろ半分に猿山に花火を打ち込んだのだとしたら、やはりその裏には「あなたはかけがえのない存在なんだよ」という実感をもらえなかった少年らの悲しみがあると推測してしかるべきです。

 自分の命に価値を持たせてもらえなかった少年に対し、「命は大切だ」と100万回唱えても、なんら意味のないことです。

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2012年03月12日

暴力的な社会(2)

 かつて「生育歴が無視される裁判員制度(5)」というブログを書いたときには、「裁判員制度が導入されれば少年法が骨抜きになる」と書きました。

 しかし、今回の光市事件の元少年への死刑判決は、私に「少年法は死んだ」という現実を突きつけました。しかも「死亡被害者がふたりで死刑」という、成人同様の厳しい判決です。

 最高裁判所という、国の最も権威有る、国の基準をはかる機関による少年への死刑判決は、とうとう日本という国が“おとな”とは違う“子ども”という存在を公然と否定してはばからなくなってしまったことを思い知らされました。

少年法とは

 もともと少年法は、うまく成長発達することができなかった未成年者のやり直しを目的とした法律です。
 だからこそ、刑罰よりも教育・保護・更生(要保護性)に力点を置き、生育歴や資質などをていねいに検討したうえで、少年の成長発達をうながす処遇を導くように定められています。少年の「立ち直りの可能性」が焦点にされてきたのもそのためです。

 ところが今回の判決は、「重視されるべきは結果」であって、「少年の成長発達の度合いや立ち直りの可能性ではない」という判断をくだしました。

“子ども”と“おとな”は違う

 子どもはおとなに比べ、あらゆる能力が未熟です。もちろん、年齢や成熟度に応じて異なりはしますが、おとなと同じ尺度で、子どもの決定能力や責任能力を測ることはできません。

 子どもは、おとなのように合理的にものごとを判断し、それにもとづいて自分の意志で何かを選択し、その結果責任を引き受ける能力がないからこそ“子ども”なのです。

 だから、国際社会は「子ども特有の権利が必要である」と考えました。おとなと比べてあらゆる意味で自分を守ることができず、能力的にも未熟である子どもが、おとなからの搾取や支配などの暴力にさらされないよう、子ども自身が自らの力で自分らしく人生を豊かに、幸せに生きていくための力になるよう、子どもの権利条約という国際的なルールを定めたのです。

子どもの権利条約の理念も否定
 
 ところが今回の最高裁判決は、こうした子どもという特殊性、子どもの権利条約の理念をきっぱりと否定しました。平たく言えば「成熟していない、責任能力のない者であっても、おとなと同じ責任を負わせろ!」と迫ったのです。

 それはたとえば、片足の無い人と両足共に健康な人を同じ条件で競わせたり、重い荷物を持った人と身軽な人を競争させたりしておきながら、「その結果生じた不都合や不利益は本人の責任である」と言うのと同じことです。

 こんなことが平気でできる社会を「暴力的」と言わずして、なんと表現すればいいのでしょうか!

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2012年03月19日

暴力的な社会(3)

 もちろん、犯した罪の責任は負わねばなりません。
「子どもだから」と、人を傷つけ、殺めることが許されないのは当然です。

 しかし、前回述べたように「責任を取ることができるおとなへの発達途上にある子ども」に対して、おとなと同等の責任を負わせること。うまく成長発達することができなかった未成年者から「生き直す機会」を奪うことが、「正義」と呼べるのでしょうか。

 もっと言えば、たとえおとなの場合であっても「命をもって償わせる」ことは果たして「正義」なのでしょうか。
「犯した罪の責任」と「そのような人格にしか成長発達できなかった責任」は分けて論じられるべきではないでしょうか。

どの子も「愛され、愛したい」

 生まれながらに、「自分は将来、殺人者になろう」とか「いつかは人を殺そう」と心に誓う人間はいません。愛されることだけを望み、関係性を求めて泣き叫ぶ幼い子どもの中に、そんな未来の姿はまったく見えません。

 確かに、かの有名な精神科医・フロイトは人間の生命や文明文化などを破壊して「無」に帰そうとする、殺人や戦争をもたらす「死の本能(タナトス)」の存在を説きました。しかし、彼に続く多くの研究者はこの考えに否定的です。

 そんな心理学の理論や論争などを用いなくても、ほんの少しでも子どもと親身になって関わった経験があれば、「どの子も愛され、愛し、だれかとつながりながら自分も他人も幸せにできるような人生を歩みたい」と思い、それに向けた可能性を秘めていることは手に取るように分かります。

「死の本能」ではない

 虐待されたり、裏切られ続けたりして来た子の多くは、憎まれ口をきいたり、暴言を吐いたり、暴れるなどしておとなの神経を逆なでします。
 愛された実感のない子の中には、火遊びや自転車での疾走などをして我が身を危険にさらし、すべてを破壊しようとするかのような行為をやってのける子がいます。

 そうやっておとなを怒らせ、失望させ、無力感を味合わせるようなことを繰り返すのは、「このおとなは壊れないか(自分を見捨てないか)」を試さずにはいられないからです。

傷つけられ、裏切られてきた子どもであればあるほど、再び傷つくことに敏感です。うっかり信じて、もっともっと深く傷つくことが恐いから、「そう簡単に心を許さないぞ!」と防衛線を張り、いまにも砕け散りそうな心を必死に守っているのです。

「死の本能」によるものではありません。

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2012年03月26日

暴力的な社会(4)

 私も、虐待や不適切な養育を受けてきた子どものセラピーをさせていただくことがあります。

 セラピー開始当初は、子どもが発する不信感や巧みな嘘、すべてを飲み込もうとするかのような欠乏感に呆然とさせられます。
 私という親の代理にぶつけてくるあまりにも激しい怒りに圧倒されてしまうこともたびたびあります。

負のエネルギーは蓄積され恨みは肥大化

 子どもが持つきちんと愛されなかったことによる負のエネルギーは年齢を重ねれば重ねるほど蓄積され、肉体的な発達を遂げれば遂げるほど破壊力は増していきます。

「私は壊れない(裏切らない)よ」「傷つけ合うのではない違う関係性があるんだよ」という実感を与えてくれるおとなに出会えず、受け止めてもらえなかった怒りは、いつしか恨みとなって肥大化し、噴出する機会を狙いはじめます。

 もしあの猿山にロケット花火を打ち込んだ少年や、山口県光市で母子を殺害してしまった少年が、もっとずっと小さな子どもだった頃、彼らがありのままの気持ちを表現できるおとながいたら・・・。少年達の怒りや傷つきにきちんと応答して受け止めてくれるおとなと出会っていたら・・・。

「こんな事件は起きず、被害者を生むこともなかっただろうに」と残念に思えて仕方がありません。

少年側の責任?

 ・・・そこでちょっと考えて欲しいのです。
 
 そのようなおとなに出会うことができず、うまく成長・発達できなかったのは、はたして少年側の責任なのでしょうか?

 こう言うと、「被害者側の気持ちはどうなる?」「やられぞんではないか!」「子どもを甘やかすことになる」・・・などなどのお叱りの声が聞こえて来そうです。

 なにひとつ落ち度が無いのに、大切な命を傷つけられたり、奪われたりした被害者の方々にすればまったくもって当然の感情です。被害者の方々が、そのような気持ちをありのままで表現することはとても大事なことですし、生き直すためには絶対に必要なことです。

 しかし、こうした感情を周囲やマスコミが煽り、「少年でも厳罰を!」と叫ぶことはどうなのでしょう? 

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