2012年01月の一覧

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2012年01月13日

「絆」って何?(1)

 新年、明けましておめでとうございます。
 
 このようにブログでご挨拶していただくのも、「新年のご挨拶も、もう何度目になったのか・・・」と考えてしまうくらい、IFFでブログを書かせていただくようになってから長い時間が経ちました。

 ずっとおつきあいくださっているみなさん、また、最近になってご覧いただくようになったみなさん、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ついつい意識してしまう「家族」

 ところで、年末年始になると、私がついつい考えてしまうものに「家族」があります。
 
 クライアントさんの多くが、家族と過ごすことに葛藤を抱えておられたり、共に過ごしたいと思う家族のいない現実と向き合う必要がある時期だからでしょう。

 何しろ、年末年始になるとメディアが一斉に「帰省」や「家族」をテーマにした情報を流します。
 それでなくとも、長年にわたって私たち日本人に染みついた「新年は家族と迎えるもの」という思い込みがあります。

 だから、なんとなく新年を家族で迎えられない(迎えたくない)ことに、ちょっとした罪悪感や寂しさを感じてしまうのだと思います。

「家族」と「絆」

 そして「家族」とセットになってよく語られるものに「絆」というものがあります。
 
 とくに昨年は、東日本大震災を受け、「命と関係性の大切さ」を多くの人が実感した年でした。
 それを象徴するように、昨年の「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」。テレビ番組や新聞などでも「絆」をテーマにしたものがたくさんあました。

 実態はよくわかりませんが、「今年の年末年始は、いつもは帰省しない人も故郷に帰った」とか、「友達と過ごすより家族と共に過ごしたいと考える増えている」などの話も耳にしました。(続く…)

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2012年01月19日

「絆」って何?(2)

 一方で、「家政婦のミタ」(日本テレビ)という、ほのぼのとした家族や従来からイメージされている絆の概念とは真逆をいくようなテレビドラマが高視聴率を得ました。
 そのヒットの裏には、「かねてからある『絆』というものへのうさんくささを感じている層に訴えたのではないか?」との意見もあります。

 たとえば、2011年12月23日付けの『東京新聞』では、同番組が描いたものを「家族崩壊後の現代的絆」と紹介し、「(略)ほのぼのとしたドラマだとうそっぽい。簡単には解決しない状況の中で、それでも希望を見いだしたいという視聴者の気持ちに沿う筋立てだったのでは」と、藤川大祐・千葉大教授のコメントを紹介しています。

 また、稲増龍夫・法政大教授は同記事で「震災後、ある意味『絆』が求められたが、それは昔に戻ることなのか、と疑問に思う人もいる。昔の親子関係や絆が崩壊したといわれる今、心の中に染みこんでくる昭和のコミュニケーションとは違う、優しくないミタのオウム返しは極めて現代的」と語っています。

昭和のコミュミケーションは心に染みこむ?

 コメントを読んでいて、ふと疑問が浮かびました。

「『ミタ』で表現されたものが現代的絆だと仮定して、昭和のコミュニケーションは心の中に染みこんでくるようなものだったのか?」ということです。

「絆」や「家族」が叫ばれる昨今、一部では「かつての家族の在り方」をもてはやし、そうした家族に戻ることに抵抗感を感じているとの声も聞こえてきます。

 そうした人々の多くは、今までの日本の家族が、けして「心の中に染みこむようなコミュニケーションがある」「ほのぼのとした」家族ではなかったと感じています。

 おそらく、そんなふうに感じる人にとっての家族は、「窮屈な入れ物」であり、そこで交わされるコミュニケーションは「絆」と呼ぶよりも、「支配」と呼んだ方がふさわしい関係だっのではないでしょうか。

 私も同感です。臨床の場でお会いする「生きづらさ」を抱えた方々の様子から察するに、昭和の家族の多くが、安心や自由を保障してくれる「絆」のある家族ではなく、「窮屈な入れ物」に過ぎない家族だったのではないかと思えるのです。

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2012年01月27日

「絆」って何?(3)

 考えてみてください。

 もし心に染みこむコミュニケーションがある、安心と自由に満ちた家族で育ったおとなが多くいるのだとしたら、『ミタ』に象徴される“現代版の絆”などを必要とする社会になっていたでしょうか。

 「無縁社会」だの「孤独死」だのというものがめずらしくない世の中になっていたでしょうか。
 親類縁者に囲まれた故郷を「窮屈だ」と感じ、干渉されない都会を目指す人間を生んだでしょうか。

「新しい公共」

 結果には必ず、それをもたらした原因や要因があります。
 それを振り返り、反省することなく、ただイメージで物事を語ることはとても危険です。

 人間に幸せをもたらす「絆」や「家族」とはどのようなものであるのか。かつての日本には、本当にそんなものがあったのかを考えることなく、ただ「絆っていい」や「家族は温かい」と喧伝することは、自分の頭で考えることをせず、唯々諾々と長いものに巻かれて行く人々を育て、拡大家族とも言える全体主義の世の中を招くことにもつながっていきます。

 「新しい公共」などという、一見、とてもリベラルで反論しにくい言葉を浸透させながら・・・。

 批判的な目を持たないということは、「現実を見ない」ということです。美しいイメージや、「こうあるべき」という理想だけを大事に抱え、目の前に起きている矛盾や詭弁に鈍感になっていくということです。

 しかしそれでは、物事の本質はいつまでたっても見えてきません。良くない現状を変えていくために、どうしたらいいのかも永久に分かりません。

分かりやすい例

 分かりやすい例を挙げましょう。

 たとえば、美しい里山の風景やイルカが群れる海、清らかな川の流れなどの映像を見れば、だれもが「ああ、自然は素晴らしい」と思うでしょう。「こんな素晴らしい自然を壊してはいけない」と心の底から考えることでしょう。

 でも、それだけでは地球規模で進む環境破壊は止められないのです。

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