2011年12月の一覧

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2011年12月05日

『希望の革命』(5)

 まるで「死の商人」です。

 制御する術が確立していなかったことが露呈し、甚大な事故が起きれば損害賠償保険さえ打ち切られてしまう可能性がある原発(福島第一原発 1200億円保険打ち切り)。そんな危険なものを平気で他国へと売りつけることができる神経に、戦慄さえ覚えます。

野田政権の姿勢

 それだけではありません。

 野田政権は、アメリカ軍普天間飛行場の沖縄移設の具体化、武器輸出三原則の見直し、環太平洋連携協定(TPP)への参加推進の姿勢などを明らかにしました。
 いずれも、アメリカ追随、そして、輸出によって利益を生み出したい人々の顔色をうかがっているとしか思えないやり方です。

 さらに消費税率の引き上げについては、野田首相が先のG20首脳会議でその意志を表明するという「自国民の生活よりも経済活動優先」の意思もうかがい知れました。

 こうした現実を並べてみると、人の命の尊さ、大切な存在とのつながりを否応なく実感させられた大震災を経た分かれ道の先にあるのは、やはり「技術を人間の幸福に奉仕させる社会」ではなく、「人間を技術(経済)の発展に奉仕させる社会」のように思え、暗澹たる気分になります。

「人間が幸福になれる社会」など念頭にない

 もし野田政権が、ほんのわずかなりとも「人間が幸福になれる社会」を念頭に置いているのであれば、このタイミングで原発輸出やあからさまなTPP参加意欲を示せるでしょうか。

 被災された方の中には、農業や酪農、漁業などの第一次産業に従事者がたくさんいます。
 そうした方々の生活が、地域が、仕事が、再建の目処も立たない今、その神経を逆なでし、打ちのめすようなことをできようはずがありません。

 いくら「農業などは対象外にするよう交渉する」と日本政府が力説しても、アメリカ側の強い姿勢、アメリカ追従の野田政権に、それができるかはかなり疑問です。
 
 つい最近も日本政府は狂牛病問題がつきまとうアメリカからの牛肉の輸入を緩和する準備に入りました。
 アメリカの食肉処理工場はブラックボックスで、どんなことが行われているのかの実態も分からず、安全性の確保が厳しいにも関わらず、アメリカの意向に沿った判断を下したのです。

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2011年12月14日

『希望の革命』(6)

 フロムは言います。

「現在のシステムの中で働いているすべての人間の努力や思考を導く原理はふたつあり、システムはその線にそって動いてゆく。

 第一の原理は、何かをすることが技術的に可能であるから、それを行わなければならないという原理である。核兵器をつくることが可能なら、たとえ私たち皆が破滅することになっても、それは作られなければならない。月や惑星に旅行することが可能なら、たとえ地上の多くの必要を満たすことを犠牲にしてでも、それはなされなければならない。

 この原理は、人間主義(ヒューマニズム)の伝統が育ててきたすべての価値の否定を意味する。この伝統においては、何かをしなければならないのは、それが人間にとって、また人間の成長、喜び、理性にとって必要だからであり、またそれが美であり、善であり、あるいは真であるからであった。

 何かが技術的に可能だからしなければならないという原理がいったん受け入れられると、他のすべての価値は王位を奪われ、技術的発展が倫理の基礎になる」
(『希望の革命61ページ』)

フロムのことばを繰り返しながら

 フロムのこの言葉を繰り返しながら、ひとたび事故が起これば、その周辺で暮らすあらゆる生命を脅かすことになっても、原発の輸出にためらいを感じ無い人たち。また、つい最近の、情報収集衛星の打ち上げ成功を「成功率95%の世界最高水準の技術力を示した」と喜び、沸くニュースを読むと、その類似性よく見えます(情報収集衛星:H2Aロケット20号機打ち上げ 「世界に技術力示す」/鹿児島

 福島第一原発の事故を意識し、さすがに原発輸出ビジネスの継続にはクビをかしげるマスコミもありますが、情報収集衛星打ち上げを疑問視する声は、とんと聞きません。宇宙開発とそのビジネス利用への参入をもてはやすムードの方がずっと高いように思えます。

第二の原理は最大の効率と生産

 さらにフロムは、同書(62ページ)で以下のように続けます。

「第二の原理は最大の効率と生産の原理である」と。そして、効率と生産の原理を挙げるためには、「人間は個人性を奪われ、自分自身の中よりもむしろ団体の中に自己の同一性を見いだすように、教えられなければならなくなる」と。

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2011年12月26日

『希望の革命』(7)

 このフロムの言葉は、ともすると日本の状況を現すときに昨今よく使われる「多様化した社会」とか「個性化の時代」などとは真逆の言葉のようにも聞こえます。

 多くの人が、今の日本社会は自由に人生を選び取り、さまざまな個性に応じて生きて行けると思わされ、私たちは自由で公平な社会に生きていると錯覚しているからです。

 現実を見れば、今の社会がマニュアル主義になっていること、個人よりも組織の判断が優先されていること、ひとりひとり違う人間存在(個性)よりも効率性が重視されていることは、明らかです。

 一見、自由に見えるけれども、そこにはいつも選ぶべき答えが用意されており、それ以外の選択をすれば、その組織の中枢からはじき出されます。
 「何を言ってもいいんですよ」というタテマエを信じて本音を語れば「空気の読めない人」として排除されていくのです。
 しかもそうして片隅に追いやられ、たとえば“負け組”に入ったとしても、それは「自己責任」として、その当人が引き受けることとされます。

端的に現す高校生のプレゼン

 かつて私がブログ(『家族はこわい』)でも紹介したある高校生が言った次の言葉が端的に、そんな日本社会の状況を表しているように思います。

 私たち子どもは「子どもだから」と話し合う場を用意されず、学校ではいうように教えられても言う場を与えられず、もし意見を言っても聴いてもらえません。
 また、意見を言わなくても生きていける、物質的には裕福な社会にいます。逆に意見を言ったために周りから白い目で見られ、孤立させられてしまうなど、時には思いもよらぬ不当な扱いを受けることもあります。
 そうしているうちに、多くの子どもたちは意見を言うのを恐れ、また言っても変わらない現状に疲れ、自分の意見を主張するのをやめていきます」(1997年の子どもの権利条約に基づく第一回日本政府報告書審査での高校生プレゼンテーション)

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2011年12月28日

『希望の革命』(8)

 そんな社会では、ひたすら個性を殺し、自ら進んで「長いものに巻かれる」ことで生き延びるしかありません。多様性のある価値観も、生き方もできようはずがないのです。
 一昔前よりも多様化が進んだものといえば、働き方くらいなものでしょう。しかしそれも、ある労働組合の方は、こんなふうに断じていました。

「よく、派遣や契約、アルバイトなど、正社員だけでなくさまざまな選択ができるよう『働き方が多様化した』と言う人がいますが、それは違う。経営者の、大企業の都合に合わせて『働かされ方が多様化した』だけです」

 今や、非正規で働く男性は539万人で労働者全体の19%、女性では1218万人で女性雇用者の54%を締めています(2011年12月9日『朝日新聞』)。日本の従業員約27%がパートタイム労働者になりました(2011年12月15日『東京新聞』)。年収200万円以下の所得者層が1000万人を超え、低所得者(07年調査では114万円)を示す相対的貧困率は16.0%にも達しています。

 不安定雇用を強いられる人たちが就いている仕事の多くは、自分らしさや創造性を必要としないマニュアル化した仕事。流れ作業のように仕事を“こなし”、不平不満があってもおとなしく飲み込んで会社の歯車のような働き方を強いられる仕事。自分らしく意見を述べれば、すぐにクビを着られるような仕事。効率性や経済性だけを追求させられる仕事。

 つまり、人として働く意欲や意義を持ちにくい非個性的で非人間的な仕事ばかりです。

「マクドナルド化」した世界

 このような仕事のあり方、企業のあり方、考え方が、本来は個性や人間性、批判精神を必要とするはずの教育や福祉、医療、法律、ジャーナリズムなど、あらゆる分野に浸透しています。アメリカの社会学者であるジョージ・リッツァが指摘した世界の「マクドナルド化」です(詳しく知りたい方は『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部を参考にしてください)。

 確かに経済的な合理性を追求しようとするのであれば、マクドナルド的な手法ほど良いものはありません。しかし、そのために払う甚大なリスクに、私たちはあまりにも無頓着です。

「マクドナルド化」した環境で生きる人間の想像力は低下し、創造性は失われ、その考えは型にはまったものになります。働き手は阻害され、新しいアイディアは浮かばなくなり、安い給料で働かざるを得ない人を大量に生み出し、貧困の連鎖を招きます。フロムが言うとおり(同書、65ページ)、ストレスや緊張は高まり、さまざまな健康上の問題も生じ、社会は健康維持のために大きなコストを払わねばならなくなります。

 不平等感や不満、偏った優越感などが犯罪の温床となり、社会は住みにくく、リスクは高まって行きます。

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2011年12月31日

『希望の革命』(9)

 想像力・創造力を失い、型にはまった考え方しかできない例は、たとえば「指示まちくん」などと揶揄される「ゆとり世代」に象徴されているかもしれません(「ゆとり世代」の若者を批判する論調には異論がありますが、今回は触れません)。

 一方、健康上の問題は13年間も続いている年間3万人の自殺や、うつ病などの気分障害の患者数の増加などに見て取れることでしょう。
 1996年には43.3万人だった総患者数が2008年には104.1万人となり、9年間で2.4倍にまで増加しています。さらに、2009年の20代〜30代の死因トップは自殺で5割を超えていますが(『平成23年版自殺対策白書』)、その実態は気分障害の増加がもっとも多いのは30代というデータとも重なります(『社会実情データ図録』)。

すでに『希望の革命』で看過

 このような社会の問題をフロムはすでに『希望の革命』で看過していました。
 同書の「訳者(作田啓一氏)あとがき」(234ページ)には、その考えが以下のようにまとめられています。

「最大生産の原理が現代社会に貫徹しており、その貫徹の要件として最大能率、最大消費の原理が作用するとともに、上からの計画を施行するため、人間を<ケース>として取り扱う官僚主義的管理がゆきわたる。
 限られた時間と空間の中では能率的である行動も、もっと広い幅の時と所を念頭におけば、<人間というシステム>の機能障害に貢献するだけであり、体制が作った消費の欲望を追及することで、人々は物の主人公になるつもりでいるが、じつは物への依存を深めるにすぎない。物、地位、家族などの所有は自我(エゴ)を確認するための有力な方法である。

 だが、そのような方向に向かって人が貪欲になればなるほど、真の自己(セルフ)は空虚となる。自我防衛のための所有の方向は、外界に向かって自らを開き、自発的、能動的に自らを世界に結びつけることによって得られる存在の確認の方向と両立し得ない。
 今日の体制のものとでは、所有は存在を貧しくすることによってしか得られず、そして存在が空虚になればなるほど、その代償として所有の追及が行進する」

 最大能率、最大消費を目指す最大生産の原理は「グローバル経済」の名の下、ときに「民主化」などという仮面をかぶって、世界中でどんどん進んでいます。

 希望はないのでしょうか? 私たち人間はこのまま機能障害に陥り、人間らしい営みを奪われ、滅んでいくしかない。

希望はある

 いいえ、希望はあります。なぜなら人間は「可能性のある限り、生命を守るためのあらゆる努力をする」(同書、209ページ)存在であるからです。
 
 その兆しを、私は震災後に感じました。未曾有の大震災、原発事故という取り返しのつかない人災を経て、私たちは「命と人間関係ほど大切なものはない」ことを改めて確認しました。いくら所有し、溜め込んでも、それだけでは人間は幸福を感じられないことを実感しました。どれほどの物があっても関係性を失ってしまえば、そこにあるのは空虚でしかないことを思い知らされました。その象徴として、今年の漢字には「絆」が選ばれました。

道を過つことがないように

 今、私たちは分かれ道に立っています。一本の道は、人間に破滅をもたらしても大量生産、大量消費を目指す経済効率を優先する社会。もう一本の道は、人間の幸福のために経済を、物質を発展させることができる社会です。

 その選ぶべき道を過つことがないよう、来年もまた足元を見つめながら一歩ずつ進んで行きたいと思います。今年もブログを読んでいただきましてありがとうございました。みなさまにとって来年が良い年となりますよう心より祈っております。

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