2011年08月の一覧

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2011年08月12日

戦争がなくても平和じゃない(1)

 もうすぐ終戦記念日です。

 毎年この時期になると、戦争や原爆に関するテレビの特番や新聞・雑誌の特集などを目にする機会が増え、自然と平和について考えさせられます。

そして目を覆うばかりの惨状や悲惨な戦争体験、戦後の過酷な環境を生き抜いてきた方々の苦労などに、本当に心が痛みます。

 しかし、その一方で「二度とあの悲劇を繰り返さない」と、式典などで述べている政治家や、戦時中と比較して「今の日本は平和である」と言う人々の発言に腑に落ちないものを感じているのも事実です。
 こうした意見を聞くたびに思います。

「戦争さえなければ平和なの?」と。

分かりやすい暴力がなければ平和?

 確かに、今、私たちの頭上に爆弾は落ちてきません。
 戦闘機が飛んでいたりはしないし、徴兵されて戦地に送られるということもありません。体制に反することを言ったり、やったりしても、だれかを傷つけたりしない限り捕まることもありません。
 
 かたちの上では、「言論の自由」が保障され、民主的な社会をつくっています(真実はどうなのかについては異論もありますが、それはまたの機会に)。

 でも、こうした目に見えやすい、分かりやすい暴力や支配さえ無くなれば、平和だと言っていいのでしょうか?

暴力があふれる家庭・家族

 たとえば前回の「『がんばらなくてもいい!』・・・そんな新しい社会へ(8)」でも書いた通り、日本の家庭・家族には暴力があふれています。

 つい先日、厚生労働省が発表した2010年度に全国の児童相談所(児相)が対応した児童虐待の件数は5万5152件で、初めて5万件を突破しました。この20年間に5倍にふくれあがり、前年度より1万件以上増えました。

 そこには、虐待死やネグレクトが大きく報道される中で、人々の関心が高まり、SOS通報が増えたということもあるでしょう。しかし、相談の現場にいる者として、子どもへの無関心・子どもという存在が理解できないことによる虐待やネグレクトは確かに増えているという実感があります。

 さらにその背景をみれば、安定な仕事にしか就けなかったり、福祉や教育までも、お金で買わなければならなくなったり、将来の見通しが立てられなかったりする社会の中で、多くのおとなが余裕を失い、子どもとの関わりで何が大切なのかが分からなくなってしまっている実態があると思います。

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2011年08月17日

戦争がなくても平和じゃない(2)

 日本は、13年連続で年間の自殺者数が3万人を超えるほど、生きていくことが大変な国です。
ここ13年間の自殺者数を合わせると約40万人にも上ります。これはなんと、第二次世界大戦で亡くなった民間人の半分もの数字です。

 そして、特定非営利活動法人・自殺対策支援センター・ライフリンクによると、未遂者はその10倍。つまり、毎日1000人もの人が自殺を図っているのが日本の「自殺の現実」だと言います。

 さらに同ホームページには、日本の自殺者数は交通事故死者数の5倍以上、自殺死亡率はアメリカの2倍でイギリスの3倍、イラク戦争で亡くなった米兵の10倍とも載っています。

 果たして戦争がないからといって、今の日本が平和だと言っていいのでしょうか?

ストレスが高まると虐待者になりやすい

 興味深い研究報告があります。日本よりも自殺率の低いイギリスとアメリカで編集された60以上の研究報告書をもとに、虐待の世代間連鎖の発生率を予測したイギリス人のオリバー氏によるものです。

 同氏は、子ども時代に虐待を受けた者が親になったときに虐待を行う傾向を報告し、その確率は三分の一に上るとしました。そして、普段は問題ないけれども、精神的ストレスが高まると虐待者となりうる者が三分の一いると見積もりました(『いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳』/Martin H Teicher監修・友田明美著/診断と治療社)。

 つまり、多くの人が自殺するような、全自殺者の58%が無職であるような、最も希望に溢れた盛りであるはずの20代・30代の死因1位が自殺であるような、精神的ストレスの高い日本という国で、虐待数が増加するのはいわば当たり前ということです。

子どもをあまり養育しない親

 ところで同書は、「母親によく養育されなかったラットは、ストレス脆弱性が生じる上に子どもをあまり養育しない」とも記しています(7ページ)。
 このラットの研究結果は、最近、巷を賑わせる子どもをネグレクトや暴力で子どもを殺してしまう親の姿と重なります。

 昨今、虐待によって亡くなる0歳児が増えていますが、日本医師会は母親が妊婦健診を受けていないなど、妊娠中に胎児に関心を払わないという事実を指摘しています(『日本経済新聞』2011年2月19日)。

 また、子どもを虐待死させてしまった親が、「しつけのつもりだった」と語る場面もよく目にします。

 たとえば2010年1月には東京都江戸川区で継父が「素直に謝らないので暴力がエスカレートした。しつけの範疇と思っていた」と小学1年生の男児を死亡させました。そして同年12月には埼玉県でベビーシッターの女性が「しつけの一環で叩いた」と5歳女児を死亡させています。
 今年3月には岡山県で高校生の長女の手足を縛って浴室に監禁し、低体温症で死亡させた母親が「いい子に育てるためにしつけていた」と無実を主張しています。

かわいがってもらえなかった者の悲劇

 いずれも精神的ストレスの高い社会で、親にきちんとかわいがってもらえないままおとなになってしまった場合の悲劇を感じます。

 愛情あふれる養育を受けられなかった彼・彼女たちは、おとはとは違う子どもという無力な存在の特性や特徴に思いをめぐらすことができず、その存在をストレスに感じ、かわいがり方も分からずに、おとなの都合に合わせよることがしつけだと疑わないまま、その幼い命を奪ってしまったのでしょう。

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2011年08月31日

戦争がなくても平和じゃない(3)

 こうした報道を目にするたびに、精神的ストレスの高い社会で、養育能力を育めないままに親になってしまった悲劇を感じます。

 おそらく愛情あふれる養育を受けられないままにおとなになった彼・彼女たちは、おとはとは違う子どもという無力な存在の特性や特徴に思いをめぐらすことができず、思い通りにならないその存在をストレスに感じ、かわいがり方も分からずに、「おとなの都合に合わせること」がしつけだと疑わないまま、その幼い命を奪ってしまったのでしょう。

おとなが子どもにすることはすべて愛情?

 以前、このブログの「『家族』はこわい」の回でも書いたように、そもそも日本社会は「おとなが子どもにすることはすべて愛情である」という考えに毒されています。
 
 その典型が、「『家族』はこわい(4)」で記した裁判長の意見です。

 “恐ろしい父”に虐待され、“不幸な母”にネグレクトされた少年が父母を殺害した事件(2005年)の判決で、担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡し、「それでもご両親なりに愛情を持って育てていたことを分かって欲しい」と語りかけました。

 これが日本の“常識”を決める機関であり、正義の砦である司法のスタンダードな考え方なのです。

民法等を改正しても・・・

 だから、止まらない虐待の増加に対応するとして、今年5月に行われた民法等改正でも親から子への懲戒権は削除されませんでした。
「しつけもできないという誤解が広がる」などと言うのが、削除に躊躇した人たちの意見です。

 改正にともない、かろうじて「子どもの利益のために行使されるもの」との文言が盛り込まれたことを評価する人たちもいますが、「しつけのつもりだった」と虐待する親が少なくない事実を考えれば、この文言が虐待防止にどれほどの効力を発揮できるものなのかは、かなり疑問です。

国連からも追求された懲戒権

 この懲戒権については、昨年5月に国連「子どもの権利委員会」(inスイス・ジュネーブ)で行われた子どもの権利条約に基づく第3回日本政府報告書審査では、委員の方から鋭い質問が浴びせられていました。

 委員のひとりは「日本には子どもの虐待を容認する法律がある」と指摘したうえで、「しつけと指導と虐待はどう違うのか説明せよ」と、日本政府団に迫りました。

 しかし、残念ながら日本政府団からは的確な返事はありませんでした。いえ、「いったいどこの省庁が応えるべきなのか」も分からず、無言になっていたというのが正確でしょう。
 政府団の人たちは、お互いに顔を見合わせながらマイクを譲り合うような感じでした。

 何しろ懲戒権との関連では法務省、指導との関連では文部科学省、虐待との関連では厚生労働省が管轄。
 すべてを包括して「子どもへの対応の在り方」を考え、応えられる仕組みそのものが、日本にはないのです。

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