2011年06月の一覧

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2011年06月06日

「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(3)

 確かに、元気な子どもの存在は私たちおとなにパワーを与えてくれます。子どもの笑顔は気持ち和ませてくれますし、楽しそうに遊ぶ姿は未来を感じさせてくれます。震災で、原発事故で、失いがちな希望という“ろうそく”に火を点してくれます。
 だからついつい子どもに向かって「がんばろうね!」と声をかけてしまいたくなります。

 でも、ちょっと待ってください。
 子どもは「おとなのために」存在しているわけではありません。子どもはおとなを元気にするためにいるわけではありません。

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 子どもにしょんぼりしたおとなを慰めたり、前を向けないおとなを勇気づけるなどという“仕事”をさせてはいけないのです。

 おとなに心配をかけないよう振る舞ったり、おとなの面倒をみたり、気分を軽くしたり、おとな同士のいざこざの緩衝材になったりすることーー子どもが「子どもとして生きられない環境」で育つことーーが、その子がおとなになってからも、なかなか下ろすことのできない十字架を背負わせてしまうことは、アルコール依存をはじめとするさまざまな依存症やDVなどの家庭で育った子どもの研究ですでに明らかになっていることです。

 順番から言えば、まずはおとなの側が、子どもが日々を安心して生きられるよう、楽しくて楽しくてしょうがない気持ちでいられるよう、自らの可能性を最大限まで伸ばせるよう、子どもの成長や発達に必要な環境を提供しなければならないはずです。

 エネルギーあふれる子どもの姿は、そうした努力をしたおとながもらえる“ご褒美”であって、けっして「がんばれ!」という安易な声かけの結果であってはならないのです。

子どもはもう十分がんばっている

 東京都内で子育て支援に関わる女性は、阪神淡路大震災を経験したという保育士から聞いた話として、こんなエピソードを教えてくれました。

「地震のあと、やっと登園してきた子に『頑張ろうね』と保育士が声をかけたら、子どもは固まってしまった。その様子を見ていた別のおとなが『もう十分がんばった。もうがんばらなくていいよ。もう大丈夫だよ』と、抱きしめたら子どもは大泣きをはじめたそうです」

 子どももおとなも、安心できる場が無ければ、辛さや悲しみを表現できません。巨大な震災と原発事故は、子どもにとてつもない無力感も与えています。
 生き残った者が感じずにいられない「自分だけが助かってしまった」との自責の念や「自分が悪い子だから、こんなひどいことが起きた」という罪悪感に悩む子も少なくないでしょう。

 そんな不安と恐怖に耐え、子どもたちはもう十分に、十二分に、がんばっているのです。それなのに「がんばれ」と声をかけられれば「まだがんばりが足りないんだ」と、子どもは自分の気持ちにふたをするしかなくなってしまいます。

辛さや悲しみを表現できないのは危険

 被災地の子どもの笑顔や親を亡くした子どもが黙々と避難所の手伝いをする姿などを感動的に取り上げるメディアも多々あります。こうした話を美談として語りたがるおとなも大勢います。
 少しでも早く涙をぬぐい、もしくは涙を隠して、前を向いて進むことはいいことだと信じて疑わない人たちもたくさんいます。

 でも、実は辛さや悲しみを十分に表現できないということは、とても危険なことなのです。

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2011年06月17日

「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(4)

 戦争で親を亡くした子どもの研究から、「愛着(アタッチメント)」という「特定の養育者との情緒的な結びつき」の大切さを述べた児童精神科医にジョン・ボウルビィという人がいます。
 
 ボウルビィは愛着対象(養育者/多くの場合は親)を失った子どもは、
(1)抗議(親が戻って来ることを期待して泣き叫んだりする)
(2)絶望(親が戻ってこない現実を認め、激しい絶望と失意を感じる)
(3)情緒的な離脱(親に代わる者の発見と結合)
 という三段階を経て回復すると述べました。これを「悲哀の過程」といいます。

喪失体験に共通する理論

 現在、この「悲哀の過程」についての理論は、近親者を失うという体験だけでなく、死に直面した人間の心理、身体機能の喪失、環境の変化に伴う反応などなど、さまざまな喪失体験に共通するものと理解されています。

 さらに、大切な対象の喪失にともなってこのような段階的な過程を必要とするのは子どもだけではなく、私たちおとなにも同様だということも、分かっています。

永遠に一緒にいられるはずだと思っていた大好きな人を失う失恋体験を想像していただければ、その気持ちの変化は容易に想像できることでしょう。

封印したはずの感情が噴出することも

 大事なものを亡くした人が当然たどる心理過程を考えたとき、今、日本中にあふれる「がんばれ!」の声が、周囲の期待を感じ取り、それに沿うよう振る舞おうとする子どもに向かって発せられたとき、いかに有害かが分かるでしょう。

 かけがえのない“だれか”を失い、家や土地を失い、生活を失い、地震や津波、原発事故という恐怖に震える子どもたちに向かって「いつまでもクヨクヨせず、早く前を向け!」というメッセージがいかに残酷なものになるのかは、想像に難くありません。

 おとなが善意で発するプラスの声かけは、子どもが「今、感じるべき感情」にふたをし、抗議や絶望の過程をきちんと味わう時間を奪いかねません。それでは辛い出来事をいつまでも過去のものにできず、将来、ふとした拍子に、思いもよらぬかたちで封印したはずの感情が噴出してしまうことにもなります。
 
「心のケア」の中身について考えたい

 今、これまで以上に「心のケア」の大切さが叫ばれています。

 これだけの大災害に見舞われたのですから、それは当然のことです。
 でも、その中身についてはもう一度、立ち止まって考えてみる必要があると強く思います。

 少なくとも、本当の「心のケア」とは、喪失体験をした当事者の思いや時間を無視して「がんばれ」と励ますことではないはずです。
 さらに踏み込んで言えば、むやみやたらとセラピーをやったり、なんでもかんでも「心のケアとして解決する」というような種類のものでもないはずです。

 つい最近、日本心理臨床学会がまとめた「『心のケア』による二次被害防止ガイドライン」でも、「安心感のない場で行うアートセラピーによって、けって子どもの心の傷が深くなる可能性もある」と指摘されています(『朝日新聞』2011年6月10日)。

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2011年06月27日

「がんばらなくてもいい」・・・そんな新しい社会へ(5)

 今回の震災以後に限ったことではありませんが、「心のケア」が、まるで「すべての問題を解決できる魔法の手段」であるかのように喧伝されることに、とても違和感を覚えています。

 かつて「スクールカウンセラーの配置」が決まったときにも、

「なぜ毎日多くの時間子どもと接する教員を増やすのではなく、月に数回、限られた時間内でしか子どもに関われないカウンセラーを派遣するのか?」

 と疑問に思いました。

 このブログの2回目で紹介した高校生が言うとおり、ごく普通に考えれば、ほとんどの子どもは「初対面のカウンセラーよりも、よく知っている先生に話を聞いてもらいたい」と思うはずだからです。

減っている正規の教員

 実は今、正規の教員は減っています。

 たとえば「子どもが笑う大阪」を掲げて当選した橋下徹氏が知事を務める大阪府では、昨年度の小中学校正規教員採用数1215人に対し、非正規教員は2003人です。
 
 2002年度から非正規教員を細切れに任用してきた広島県では、2専門教科の教員を確保できなかったり、105日間にわたって年度途中での代替者が見つからない事態に陥ったことがありました。

 教育の低予算化のあおりを受け、もともとは正規教員が病欠したときの穴埋めなどに任用されてきた非正規教員が、ていのいい「コマ」に使われています。
 そう、一般企業同様、公教育においても「使い捨て」で「安上がり」の非正規が増えているのです。

生計を立てるのも大変な非正規教員

 余談になりますが、非正規教員ともなると生活は大変です。
 生計を立てるために複数の学校や塾をかけもちしたり、アルバイトをすることを強いられます。
 時給制で、授業時間以外の教材準備、テストの作成・採点などは無給。
 採用期間は学校側の都合で左右され、夏休みなどには収入がゼロになるのですから当然です。
 中には生活保護を受給している非正規教員もいると聞きました。

 それでなくとも正規教員も、人事考課や数値目標で縛られ、他の教員と競争させられ、事務仕事を激増させられていますから、「子どものことなどかまっていられない」状況。
 当然、子どもの気持ちを受け止めたり、うまく言葉にできない思いを聴き取ったりする余裕などありません。

 教員が子どもの話も聴けない環境をつくっておきながら、「『心のケア』はスクールカウンセラーに」と言うのですから、それが本当に子どものためを考えての施策なのかどうか疑わずにはいられません。
 
 せめて「すべての学校にスクールカウンセラーを常駐させる」とでも言うのであれば、「特別なニーズを必要とする保護者と子どもへの対応」と思うこともできますが、ほど遠い現状があることはみなさんご存じのことでしょう。

 これと同じことが、震災後は「『心のケア』の名目で行われているのではないか?」と思ってしまうのは、私の考えすぎなのでしょうか。

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