2011年05月の一覧

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2011年05月16日

「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(1)

 まったく私的な話からはじめて恐縮ですが、私が『いいかげんに生きよう新聞』なるものの存在を知ったのは、もう○十年も前のことです。
 本屋でたまたま目に入った『生きるのが怖い少女たち 過食・拒食の病理をさぐる』(光文社刊/斎藤学著)という一冊の本を手に取ったときでした。

 この本に出会うまで、「過食・拒食」という概念があるということなど、まったく知りませんでしたし、ましてや新聞の発行元であるNABA(日本アノレキシア・ブリミア・アソシエーション)や、著者である斎藤顧問のことも、何一つ知りませんでした。

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 そんな無知な私でしたが、同書に転載されていた『いいかげんに生きよう新聞』への投稿ーー斎藤顧問は「時代の閉塞感、息苦しさへの悲鳴を奏でる『カナリアの歌』と呼んでいましたーーには心から共感できました。そして、「いいかげんに生きよう」という言葉に大きな衝撃を受けました。

 そう、それまでの私は、「頑張ろう」「前へ進もう」「一番を目指そう」など、東日本大震災後、とみに巷にあふれるようになった“呪文”でもある「頑張る人間は素晴らしい!」という考えにガッチリとらわれた人間だったのです。

違和感のある「がんばれ」と「復興」

 そんな○十年前の私なら別だったかもしれませんが、昨今の「がんばれの大合唱」。そして、「元通りの社会への一日も早い復興を!」のかけ声は、かなり耳障りに聞こえます。

 未だに多数の行方不明者がおり、長引く避難生活をされている方や先の見えない毎日におびえる方々に向かって、「復興に向けてがんばれ!」と言える神経というのはいったいどういうものなのでしょうか。

 かえがえのない大切な方を亡くしたり、愛する土地や仕事を手放さざるを得なかったり、先の見えない生活を突きつけられた方たちに向かって、どうして「いつまでも嘆いていないで前に進もう!」なんて軽々しく言えるのでしょうか。

 福島第一原発から発せられる放射能の恐怖も収まらない中で、原発震災をもたらした社会の在り方が真摯に問われることもないまま、軽々しく「元通りの社会に“復興”しよう」と言われることにも大きな違和感を禁じ得ません。

「がんばっていないお前はダメ」のメッセージ

 精神病理学者で関西学院大学教授の野田正彰さんは言います。

「(略)被災した人は歯を食いしばって頑張っている。必死になって耐えている。だれががんばっていないというのか。『がんばろう』は、苦しい人に対して『頑張れないお前はダメだ』というメッセージになる(略)」『サンデー毎日』(2011年4月17日号223ページ)

 私もまったく同感です。

 人は「大切なものを失った」という事実を受け入れるまで、長い時間がかかります。戸惑ったり、困惑したりしながら「辛い現実」を受け入れていきます。 そして、それができるようになるためには、とうてい前向きになどなれない絶望観までもを安心して表現できる環境が不可欠です。

 傷ついた心が癒され、「前に進もう」「がんばって生きていこう」と思えるようになるためには、それなりの時間が必要で、落ち込んだりネガティブになったりする時間を共有してくれる“だれか”がいなければなりません。「『がんばれ』と言わたら『がんばれる』」というものではないのです。

本当の支援とは

 政府が提案する高台への移住、エコタウン構想、被災地域からの避難なども、そのままでは受け入れがたい内容です。

 もちろん、こうした案を積極的に受け入れ、まったく新しい第二の人生を歩み始めたいと考える人もいるでしょう。「二度と海は見たくない」という人もいるでしょう。

 しかし中には、行方の分からない肉親の「せめて亡骸だけでも見つけてあげたい」と願っている人、「慣れ親しんだ土地を離れてどうやって暮らして行けばいいかも分からない」と思う人、「出来る限り今までと同じ生活をしたい」と考える人、「やっぱり海の側で暮らしたい」と望む人だっています。

 そういう人たちに対しては、現時点では身の安全をはかりながら、将来に向けては極力、その意に添えるような、具体的な提案していくべきです。
 被災された方々は、想像を絶する体験をされているのです。それならばなおのこと、ひとりひとりのニーズを汲み取り、できるかぎり、それに応えながら行うことこそが本当の支援ではないでしょうか。

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2011年05月26日

「がんばらなくてもいい!」・・・そんな新しい社会へ(2)

 安易な「がんばれ」の声かけは、被災者をよけいに苦しめます。

「早く元気になりたい」
「応援してくれる人に報いたい」
「いつまでも落ち込む姿を見せたくない」

 多くの被災者の方はそう思っているはずです。そんな方に「がんばれ!」と呼びかければ、たとえどんなに辛い心境にあっても「がんばる!」と応えようとしてしまいます。

 大変そうにしているおとなの前では、子どもが自分の大変さを絶対に出せないのと同じです。

いちばん心配なのは子どもたち

「がんばれ!」の影響がいちばん心配なのは、子どもたちです。

 先ほども述べたように、子どもはおとなよりもずっと敏感に周囲の期待や希望を読み取り、それに添えるよう振る舞います。
 おとなに愛され、世話をされなければ生きていけない「子ども」という存在が取らざるを得ない、当然の防衛策です。

 そんな子どもという存在を考えたとき、被災地で展開されている「とにかく早く、通常通りの学校運営をしなければ」という動きが、とても気になります。
 
 たとえば、土壌の放射能汚染が心配される中、福島県では多く学校がほぼ予定通りに入学式や始業式を行い、暫定的に上げられた国の安全基準を満たしているから「安全なんだ」という姿勢を崩さない自治体も少なくありません。

 宮城県は例年通り4月1日付けで教職員の人事異動を発表し、原則、4月半ばまでには被害を受けた公立小中学校の再開を行うという考えを示しました。宮城県では300人近い子どもが死亡し、未だ行方不明の子も多くいます。亡くなった教師も、行方不明の教師もいます。助かった子どもや教師の中にも、家族や大事な人を失ったり、行方不明のままになっていたりする人もいます。

 それなのに、通常通りの人事異動。そして教師の手が足りなければ「ひとりの教職員に前任校と新任校を兼務させる」という宮城県教育委員会の方針は、乱暴に思えます。

 しかし、教育関係者ではない多くおとなたちにも「他の地域の子どもと学力差がつかないように」と、その姿勢を後押しする雰囲気が感じられます。

 こうした状況について、宮城県に住むある高校生は、こんなふうに話していました。

「あまりにも子どもの目線がなくて悲しくなった。
 小中学校の多くはいまだに避難所になっているし、親が行方不明の子もいる。

 いつになったら普通の生活に戻れるのか目処も立たない中で、担任の先生まで異動してしまったら子どもはいったいだれに気持ちを受け止めてもらえるのか。
 『スクールカウンセラーが心のケアにあたる』と言うけど、私なら初対面のカウンセラーよりも、よく知っている先生に話を聞いてもらいたい。

 もし自分が小学生だったら、終業式も、離任式もないまま、先生といきなり会えなくなったら、すごく悲しいと思う」

「日常に戻る」ことは大切だけど

「日常に戻る」ことは、確かに大切なことです。
 授業や部活を楽しみにしている子どもは多いでしょうし、大好きな先生と話ができたり、友達と思いっきり遊ぶことができる環境は子どもに力を与えてくれるでしょう。
 何事もなかったときのように、学校に通い、学び、家でくつろぐ・・・そんな毎日を熱望している子どもはいっぱいいると思います。

 しかしそれには、まずインフラをある程度整え、子どもが気持ちを整理できるような環境を(人間関係)を用意しなければなりません。

 たとえば、ふかふかのお布団に眠ったり、プライバシーが保護された空間で暮らせたり、できたての食べ物を食べられたり、落ち着いて勉強できる場所が確保できたりて、「ここは安全なんだ」と感じられるような信頼できるおとなが身近にいて、はじめて可能になることではないでしょうか。
 
 少なくともこうした基盤がまったくないうちから、被災していない地域の時間や都合に合わせて「日常生活に戻る」ように子どもたちを「がんばらせる」ことが、「日常に戻る」ことではないはずです。

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