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同書は、「助けてと言えない」のは、競争教育、過度の自己責任論の洗礼を浴びてきた30代の特徴と位置付けていますが、はたしてそうでしょうか?

今回の大震災・原発事故で、避難所に入ることを余儀無くされた人々のインタビュー風景を見るたびに、そのことを考えさせられます。

ひたすら堪え忍ぶ被災した方々

被災者の方々は口々に、「(避難所に)置いてもらえるだけで十分」「こんなにしてもらってありがたい」「ワガママは言えない」など、「他人の世話になっていることへの申し訳なさ」を訴えます。

本当は「もっと暖かい場所で暮らしたい」「野菜や魚が食べたい」「ふわふわの布団で眠りたい」などなど、いろいろあるだろうに、そうした欲求は飲み込んでいます。

一時、避難所に入っていた知人からは「避難所も大変だけど、避難所まで行けない人たちもすごく大変。炊き出しに並んでいたときに『自分たちが食べると、他の人の食いぶちがへるから』と、1日1個のおにぎりを分け合っているという年配の夫婦がいた」との話も聞きました。

こうした日本人の謙虚さというのでしょうか。自己犠牲の精神は、“美徳”として語られることが多々あります。

震災後、海外では「なぜ、こんな状況でも日本では暴動が起きないのだ!」と、静かに堪え忍ぶ日本人の様子に感嘆すると同時にたたえる報道が見られました。
こうした海外の声は、原発事故の被害の拡大とともに、感嘆というよりも、「理解できない」というトーンに変わりつつもありますが・・・。

ずっと助けてと言えなかった日本人

そんな様子を見るに付け、私はやはり、「今の30代に限らず、日本人はずっと『助けてと言えない』ままきたのだ」と思ってしまいます。

何しろ、今回の地震と津波も、原発事故も、当然ですが被災した方々は、文字通り被害者です。当然ながら、なにひとつ責任はありません。

巨大な暴力を受けた立場の者として、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか!」と、「なぜ政府の支援はこんなにも遅いのか!」と、「危機管理をしていなかった責任をちゃんと取れ!」と、声を上げてもいいはずです。

「このままでは自分は死んでしまう! 助けてくれ!!」と、もっともっと声高に叫んでしかるべきなのです。

「助けてと言えない」背景

こうした背景には、私たち日本人が何世代にもわたって「子どもの頃から欲求を抑えこみ、意見を述べることを潰してきた」ことが深く影響しているのではないでしょうか。

私たちの社会は「しつけ」という名で、子どもを調教し、社会に早く適応することを是としてきました。子どもが安心感を持ったり、成長・発達するために必要な思いや願いも、おとなの都合で「わがまま」と呼び、切り捨ててきました。実態のない「世間さま」に合わせて行動することを強いてきました。

そして一方で、だれかに頼ることを依存と呼び、自分で自分の面倒をきちんと見られないことを弱さととらえ、そうした存在を「ダメな人」「迷惑なもの」と位置付け、「すべてを自分でまかなえる人間」=自立した人間として、もてはやしてきました。(続く…

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おかげですっかり、私たちの精神には「他人様のお世話になるのは恥ずかしいこと」という考えが染みこんでいます。
そして、「世間様に後ろ指を指されない人間でなければならない」という思いに縛られています。

自分の意見があっても飲み込んで、多数に合わせて、多数に迷惑をかけないように振る舞うことが「おとなの態度」と言われてしまったりもします。その多数の言っていることが、どんなに理不尽で、どんなにおかしかったとしても・・・。

日本の学校教育は、まさにこうした「多数(社会)に逆らわず、耐える人間」を育てることにずっと貢献してきました。
たとえばランドセル、制服、学習指導要領に校則などがその道具に使われてきました。子どもは「なぜ従わないといけないのか」も分からないまま、合理的な理由もないのに、これらを黙って身につけ、従うしかありません。

支配と忍耐

そんな学校教育をよく現した歌のひとつに、アーティスト・尾崎豊の「卒業」(1985年)があります。尾崎はこう歌います。

人は誰も縛られた かよわき子羊ならば 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺達の怒り どこへ向かうべきなのか これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう
仕組まれた自由に 誰も気づかずに あがいた日々も終わる
この支配からの 卒業 戦いからの 卒業

尾崎の「卒業」は、2003年の男子高校生による国連「子どもの権利委員会」への報告書とも重なります。

(略)忍耐忍耐忍耐! 先生たちも人がくずのように扱われていても風波立てぬように自分たちが無であるように忍耐忍耐忍耐! 先生の言うことにすることに疑問を持つなんてとんでもない。(略)“はい謹慎”“はい退学”、問題の本質を考えることなく、たくさんの仲間がやめていった。やめされられていった。くずのように扱われて、世の中こんなもんだとあきらめさせられて。

ソフトな手法で行われる支配

しかも質の悪いことに、この支配は本人さえ「暴力」とは気づかないほど、ソフトな手法で行われことが多々あります。
1997年に国連「子どもの権利委員会」でプレゼンテーションした女子高校生はこう言っています。

私たち子どもは、「子どもだから」と話合う場を用意されず、学校では意見を言うように教えられていても言う場を与えられず、もし意見を言っても聞いてもらえません。また、意見を言わなくても、それなりに生きていける物質的には裕福な社会にいます。
逆に意見を言ったために周りから白い目で見られ、孤立させられてしまうなど、時には思いもよらぬ不当な扱いを受けます。
そうしているうちに多くの子どもたちは、意見を言うのを恐れ、また言っても何も変わらない現状に疲れ、自分の意見を主張するのをやめていきます。

増殖するソフトな支配

こうしたソフトな支配は、格差社会が進む中で家庭をはじめ、あらゆる場所で増殖しています。負け組に入るしかなかった人たちの反乱を抑え、自らの不遇を「自己責任」として抱え込ませるためです。

「ルールを守ろう」「マナーを大切に」「迷惑行為は止めよう」・・・そんなだれも反論できないような柔らかな言葉を使って、街中に規範と規律がまき散らかされています。(続く…

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かくしてだれもが、ますます自分の思いや願いにはふたをし、意見を飲み込み、多数に黙々と従うサイレント・マジョリティーに仕立て上げられていきます。

その総仕上げを担うのがマスコミです。

日本の大きなメディアは、権力を批判し、監視するジャーナリズムという役割を捨て、政府・財界と一体化し、自らも権力となってしまいました。もちろんフリーランスの人やネット上のメディアなどではジャーナリストたろうする動きは、ずっとあります。でもその影響力は大メディアとは比べものになりません。

今回は大手のメディアでも「福島原発事故発生時に東京電力会長が大手マスコミ幹部を接待旅行に行っていた」とのニュースを流しました、原発震災が起こらなければ、こうした報道は、まずされなかったことでしょう。

マスコミが追求すべき疑問山積

とくに人災と言うべき福島第一原発事故については、素人目に見てもマスコミが突っ込むべきところが山のようにあります。

たとえばなぜ、地点ごとの細かい正確な放射線量のデータを随時公開しないのか。なぜ、魚を調べる前に、最も汚染が心配される海藻を調査し、そのデータを明らかにしないのか。なぜ、じわじわと福島第一原発からの避難距離を伸ばしているのか。なぜ、日本中の電力を相互に使えるよう電力会社間の調整を図らないのか。

そうした努力はしないまま、なぜ政府が、平気で個人の責任と負担を強いる自主避難や野菜の出荷自粛などを呼びかけることができるのか。

そもそも、今まで国が「ちゃんとやっている」と言っていた地震や原発に対するリスク管理がどんなものであったのか、もっともっと鋭く追求すべきです。

原発を持つ、持たないの議論はひとまず横に置いておきましょう。
でも、現にこれだけ危険なものを私たちの国は50基以上も持ち、日々、動かしているのですから、その危険性は周知徹底されるべきです。地域の人たちはもちろん、国民全体が「危険なもの」であるという認識を持って、日頃から準備しておくだけの正確な情報、最悪の事態を「想定した」シナリオは必須のはずです。

驚愕の調査結果

個人レベルでは、こうしたことに疑問を持ったり、憤ってはいても、なかなか社会全体の動きにまではなりません。

前に紹介した高校生の文章を真似るとしたら、「たとえむちゃな計画停電で病院への送電が止まっても、仕事や通勤に支障を来しても忍耐忍耐忍耐! 解釈を加えた報道ばかりが伝えられ、都合の悪いデータが非公開でも忍耐忍耐忍耐! 大勢の人が家族や住み慣れた土地や未来までも奪われても忍耐忍耐忍耐!」という感じでしょうか。

3月にあった原発反対のデモも、ドイツでは参加者が25万人を超えたというのに、日本は1500人ほど。例年に比べればかなりの大人数ではありますが、タイミング的に考えると、もっと大勢が参加してもいいように思えます。

そして、3月19日の『東京新聞』によると、原発に不安を感じつつも「運転しながら安全対策を強化していく」が56.2%と半数を超えた数字になっていました。
今なお福島第一原発の状況が安定していない状況、そして電力会社と政府の右往左往ぶりを考えると、その回答に驚愕せずにはいられません。(続く…

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私たち人間はだれしも、「厳しい現実」を見たくありませんし、「安心して暮らしたい」と願っています。

だから、耐えられない現実に出会ったとき、それを「無かったこと」(否認)にしたり、わき上がってくる不安や恐怖を「意識の外に閉め出す」(抑圧)ことなどをして、自分を防衛します。

原発事故を前に「原発は安心安全なはず」と戸惑い、「(政府の言う)10キロ圏内の避難計画しか立てていなかった」などと言う報道を見ると、あるDV被害女性のセリフを思い出します。
彼女は夫との生活を振り返り、こう言いました。

===
「夫はいつでも『俺のことを信じてくれ』と言っていました。そう言われると、『不安を解消したい』、『夫を信じたい』という気持ちになり、夫の仕打ちや『信じろ』と言うに足る根拠について考えをめぐらすることができなくなっていました。そして、知らず知らずのうちに『夫がひどい人間である』という事実を打ち消していたのです」

こうした心の機能は、日々をやり過ごしていくためには一定程度の効果を持ちます。しかし、それはときに、取り返しのつかない崖っぷちまで、私たちを追い詰めてしまうこともあります。

“冷静”な言動の裏に

海外の人々を驚かせる日本人の“冷静”な言動の裏には、こうした心の機能が影響しているのではないでしょうか。

私たちは「話をする大切さ」は教えられても「話をする場」は与えられず、理不尽なことでも忍耐で乗り切るよう訓練され、へたに意見を言うと白い目で見られる社会に生きています(『静かなる反乱(6)』)。

そんな社会では、怒り(意見)を表すことはとてもリスクの高い行為です。自らの身が脅かされたり、危険にさらされたことを知らせるシグナルであるはずの怒りも、「なるべく感じ無いよう」に抑圧されていきます。

もしかしたら、自分を脅かしているはずの他者の行為をまったく違う感情を持って迎えるように頑張ったりするかもしれません。たとえば「ありがたいもの」と感じるように、など・・・。

怒りは大切な感情

こうした工夫は、一時の社会適応には便利ですが、私たちからリアルな感情を奪い、人間関係を築きにくくし、抑うつ的になったり、無気力なったり、さらに危険な事態を招いてしまうことにもなります。

怒りは自分を守るための大切な感情です。へたに抑え込もうとすれば、予期せぬ時に破壊的な行為となって飛び出すこともあります。それを防ぐには、まずきちんと怒りを感じ、「どうやって表出させるか」と考え、怒りをもたらすような環境(社会)を変化させる創造のエネルギーとして使うことなのです。

利益を貪る人々の誤算

確かに日本には、リビアのカダフィ氏のように、エジプトのムバラク前大統領のような独裁者はいません。一見、自由な国のようにも見えます。

しかし実は、怒りを表現できないよう「仕組まれた自由」が張り巡らされています。そして仕組みの後ろ側には、その仕組をつくり、恩恵を受けている人々がいるのです。
危険性を隠して次々と建設・運転されてきた原発にむらがり、利益をむさぼる人々のような・・・。

ただ、利益を貪る人々は誤算をしています。イエスマンや無気力な人が増えていけば、自らのあたまで考え、行動し、責任を引き受けようという人間はいなくなります。自由に発想し、新しいものにチャレンジできるような人間もいなくなります。

そうなれば当然、きちんとリスク管理ができたり、緊急事態に適切に対応できたり、国際社会で活躍できる人間もいなくなってしまいます。日本経済は衰退の一途をたどり、利益を享受することもできなくなるでしょう。

でも、もしかしたらそれは、言葉を奪われ、仕事が無いのも自己責任として切り捨てられ、自ら命を絶つしかないよう仕組まれたこの国で、見えない権力者に拳を振り上げることもできず、「迷える子羊」として生きるしかなかった人々の「静かなる反乱」なのかもしれません。

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