このシリーズの最初の記事へ

私が取材で会った子どもの中には、この「一時保護」そのものが、トラウマになっている場合もめずらしくありませんでした。

「人見知りをしなかった子どもが、男性を怖がるようになった」
「ひとりで留守番させようようとすると『警察が連れに来るかも知れない』とおびえる」

・・・そんな声も聞かれました。

はじめて知った「心理職」の仕事

こうした体験をした子どもが、警察や社会に対して、否定的な印象を持つことは意外でもなんでもありません。

むしろ、「当然」と言っていいことでしょう。

ところが、「保護」された子どもを担当したある「心理職」の方は、子どもの母親に対して親元に返せない理由をこんなふうに語ったそうです。

「心理検査したが、まだマインドコントロールが解けていない。しかも、『警察は嫌いだ』などと、反社会的なことを言っている」

でも、いったいどんな心理検査が行われたのか。どんな基準で判断しているのか。何より、なぜ子どもたちが「反社会的なことを言うようになっているのか」については、まったく触れられませんでした。

これが、私がはじめて知った「心理職」の仕事ぶりでしたから、私が「心理という仕事」に対して、批判的かつ懐疑的だったのはあたりまえでしょう。

心理を学ぶに至る経緯

話をうんと最初のところに戻しましょう。

この一件があってからというもの、心理職に対してまったくいい印象を持てずにいた私をよそに、世の中には「こころブーム」が到来しました。

スピリチュアルなものから専門的なものまで、娯楽雑誌から教育現場まで、あらゆるところに「こころ」というキーワードが氾濫し、「こころの時代」などと呼ばれるようにもなりました。

実は、この背景にもさまざまな仕掛けがあるのですが、それもまた長くなるので別の機会に譲っておきましょう。

とにかく、あっちでもこっちでも「こころ」をめぐる現象がさまざま起き、それまで振り向きもされなかった心理の専門家は、「まるでこころを自由に操れる魔法使い」のごとく、珍重されるようになりました。

国家権力におもねる心理の専門家や、そんな心理の専門家を利用しようとする権力者が目に付くようになり、「こうした人々をきちんと批判した記事を書くためには、自分が心理に詳しくならなければ」という思いが私の中で強くなっていき、やがて心理の大学院へと進む決心をしました。

このオウム事件の数年後に、以前「真夏の怪(3)」で書いた「子どもの心をおとな(社会)に合わせてつくり変える」ためのツールである『心のノート』が、高名な心理学者を中心につくられたことも、その決心を後押ししました

でも、そのときはまさか自分が心理臨床を仕事とする人になるとは、予想だにしていませんでした。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

そう、あくまでも「取材や執筆に活かせる知識を得たい」というのが、心理を学ぶ理由だったのです。

ところが大学院の授業の一環として、臨床実習が始まると、その気持ちに変わっていきました。

まず、それまで取材を通して経験的に感じていた「『ありのままの自分を受け入れてくれる居場所(人間関係)がどこにもない』ということこそ、人が創造的に生きられない理由に違いない」との思いがどんどん膨らんでいきました。

それと同時に、クライエント(患者)さんとお会いすることで、新しい驚きや喜びを感じるようになったのです。

その喜びはどこから?

でも、不思議です。辛い体験をお聞きすることが、なぜ喜びにつながるのでしょうか?

生きる意欲を持てない方、ほとんど寝たきりで過ごしている方、空気を吸うのも「申し訳ない」と言うほど、自分に価値を感じられない方、世の“常識”から見れば、逸脱行為にしか見えない行為を繰り返す方・・・。

カウンセリングをさせていただいていると、その背景にある怒りやねたみ、絶望や失望などの激しい感情に飲みこれそうになることも、しばしばあります。

長い間、
「それでも、そういう方々と向き合うことに感じる喜びとはいったいなんなのか?」
と、考えても分かりませんでした。

人間の可能性を感じる

その問いに答えをくれたのが、このブログの冒頭で紹介した「じょうろと種」のエピソードをお聞きしたときでした。

私が臨床の仕事に心惹かれる理由。それは、「人間の持つ可能性をダイレクトに感じることができるからなのだ」と思い至ったのです。

たとえ、今は嵐の中で身をすくめていても、冷たい空気に囲まれて芽吹くことができなくても、きれいな花を咲かせられなくても、「実は、本来持っている生命力がちょっとかげってしまっているだけ。だれもが心の奥底では『幸せになりたい』と願い、それを実現する力を持っている」と、実感できるからなのです。

長い長い冬の終わり、極寒の地の小春日和、何にも負けない力強さ・・・。厳しい中に垣間見える生命力にハッとさせられる瞬間が、臨床の現場には確かにあります。

そんなすばらしい瞬間の立会人として、輝く「生命力の種」に触れることができた喜びを1人でも多くのクライエントさんに返して行くことができる。2011年は、そんな年にしたいと思っています。

2月も終わろうとしていますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

チュニジアで始まった反政府デモが、アフリカや中東諸国に広がっています。さらにアジア圏である中国でも、インターネット上で国民が抗議行動を呼びかけ、人権活動家たちが警察の拘束下に置かれる騒ぎになっています(参照)。

エジプトのムバラク大統領が退陣を余儀無くされた後、世界各地のいくつもの報道番組が「なぜエジプトで大規模デモが成功したのか」を取り上げていました。

そんな多くの番組の中で、とく印象に残った発言がありました。
正確な番組名(おそらくアメリカの報道関係者が製作したもの)を残していなかったので不確かな情報になってしまいますが、2月11日夜20時前後にNHKのBSで放送していた討論会でのある識者の発言です。

その識者は、「エジプトで、若者による大規模なデモが起きたのは教育に問題があったからだ」と言ったのです。

なぜ日本の若者はおとなしい?

日本の状況を見ると、その言葉は的を射ているように思います。

中国までやってきた反政府デモの波。果たして、その波が東シナ海を越えて、日本にまで到達すると考えている日本人はどのくらいいるでしょうか。中国同様、だれかがネット上で呼びかけたら、日本でも「現政府を倒そう」という動きが始まるのではないかと思っている人はどうでしょう。

私も、答えは「NO」だと思います。

ではなぜ、日本の若者や労働者層はおとなしいのでしょうか。
反政府デモが広がる国々に比べれば、まだまだ豊かで平和な、住みやすい国だからなのでしょうか。北アフリカや中東のように貧富の差が無いからなのでしょうか。独裁者がおらず、民主主義社会を実現できているからでしょうか。言論統制がないからなのでしょうか。

毎度のことですが、ここでもやっぱり私は「でも、だけど・・・」と、言ってしまいたくなります。

戦争がなくても平和じゃない

確かに戦争や内紛など、武器を使った暴力は日本にはありません。

しかし、「虐待」と呼ばれるものが「身体的虐待だけ」ではないように、戦争も、そうした目に見えやすいものばかりではありません。

ここ13年間、日本では毎年3万人もが自殺しています。つまり10年あまりで40万人に届く人が自ら命を絶っているわけです。

内閣府の 『一人ひとりを包括する社会特命チーム』資料(PDF)によると、日本の自殺率は、世界第6位で、アメリカの2倍、英国やイタリアの3倍と先進国の中でも、最も深刻です。さらに、驚いたことに20代30代の死因の第一位が自殺となっています。

背景には「社会に求められる能力が高く、生産性のある人物しか生き残れない」ラットレースのような「マネー経済戦争」があります。

まるで「自分で金を稼げないヤツは生きている資格が無い」とでも言いたげな自己責任論や能力主義を掲げる社会のストレスは、虐待、DV、老人虐待、子どもの暴力、象徴的な無差別殺傷事件などとして、市民生活を脅かし、私たちの心をむしばんでいます。

戦争がなくても、日本には多くの暴力がはびこっています。たとえ戦争がなくても、日本はけっして平和で豊かな国ではありません。(続く…

カウンセリングルーム カウンセリングルーム カウンセリングルーム