2010年06月の一覧

« 2010年05月 | メイン | 2010年07月 »

2010年06月07日

本音とたてまえ、オモテとウラ(4)

「ゆとり教育」になったことで、教師は「以前と同じ内容を短時間で、しかも子どもの実感がともなわない方法で教えなければならない」ようになりました。

 当然、子どもの理解度は落ちていきます。そして、一度、分からなくなるともう二度と学校の授業には付いていけなくなることも増えました。

「基礎的な学力を何も身につけられないまま、小学校高学年、中学生へと進んでいく子どもが少なくない」
 現場の教師はよくそんなふうに嘆いていました。

ゆとりのなくなった教師

 そもそも教師自身、子どものことを気にする余裕がなくなっています。「学校を開く」とか「学校の説明責任を明確にする」とか、「優秀な教師を育てる」とか、これまたオモテとウラのある現実で教師への締め付けが厳しくなったのもちょうどこの頃。

 オモテ向きはとても耳障りよく聞こえるこれらの言葉の実態は、たとえば基準の明確な数値目標の設定や、教育委員会(文部科学省)の人事考課による教師評価、管理職向けの膨大な事務仕事の増加などです。

 すごく簡単に言ってしまうと、“お上”が教師を管理し、個々人の教師が、目の前にいる子どもの現実に合わせて自由に教育を行う自由と余裕を奪ったのです。

 時間的にも精神的にもゆとりのなくなった教師には、以前のように必要なときに補習授業をしたり、個別に勉強を見てあげるなどということが難しくなってしまいました。たとえ“気になる子”がいても、教師に余力がなければ「見なかったこと」にするしかありません。

 しかも、アメリカを真似た平等や福祉を排除した教育制度——競争と選択によって受けられる教育を個人に決めさせ、その結果責任を個人に負わせて国民を階層化しようというもの——に移行しようという動きもすでに始まっていました。そうした教育制度に親しむよう教育された教師の中には、かつてのように「分かるまでちゃんと教えよう」ではなく、「分からないのは自己責任」と考える教師も増え始めていました。

開く学力の差

 当然、“できる子”と“できない子”の学力差は開いていきます。

 一昔前には、テストをすると点数の分布表は真ん中付近が高いベル型になるのが普通でしたが、「ゆとり教育」が始まった後からは真ん中がくぼんだM型になることが多くなったという話をあちこちで耳にしました。
 しかも、Mの山と山の間はどんどん離れていく傾向にあるというのです。そして、高い点数を取る子どもは、ほぼ全員が塾に行っているという話しも聞きました。

 分からなくなった勉強、ていねいに教えてくれる人がいない勉強をすっかりあきらめ、ぜんぜん勉強しない子どもが増える一方で、高額な塾に通い本来は上の学年で学ぶべきことまで先取りして学ぶ子どもも多くなりました。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ

2010年06月18日

本音とたてまえ、オモテとウラ(5)

 教育熱心で、学校以外に勉強の場を確保できるような親がいる子どもの学力は上がり、そうでない子どもの学力は下がる・・・。
 そんなことが当たり前のようになっていきました。

 そして、学力格差を生み出すような「学ぶ子」と「学ばない子」が歴然とする学校は、学力以外にもさまざまな問題をもたらしました。

 それまでは、たとえ勉強ができなくても、走るのが速いとか人前で話すのが得意とか、それぞれの得手不得手を活かして、行事で活躍できる子が大勢いました。
 だから、テストでは上位になれなくても、自分のことを卑下したり、ストレスをため込むことは少なかったのです。

 でも、ゆとりが無くなり、行事が減らされる一方の学校では、勉強以外の活躍の場はどんどん減っていきました。
 勉強以外で活躍できない子どもたちの中には、荒れたり、暴力的になったり、弱い者いじめで鬱憤を晴らそうとする子が出て来ました。また、早いうちから「どうせ自分は頭が悪い」などと考え、諦めてしまう子も増えていきました。

進む学力低下と問題行動の増加

 その結果、学力の二極化はどんどん進んでいき、全体の学力レベルは下がり、問題行動は増えて行きました。

 たとえテストの点数が高い子であっても、生涯を生き抜く力につながるような真の学力が向上しているのか、学ぶことによって思いやりなどの人間性まで育てられているのかは眉唾です。

 何しろテストで点数が取れるのは、塾などで「他人を蹴落として点数を取る」勉強のテクニックを学んだ子ども。だれかに支えられながら好奇心を持って取り組んだり、みんなで知恵を絞って難しい課題に取り組むなど、人とつながる経験をもとにする“こころ”を育てながら、持って生まれた力を伸ばすような学びではありません。

 しかし、残念ながら「受験体制は変えないまま教える内容と時間を減らして、教員の管理を強めて多忙にすれば、子どもにかかわれない教員が増えて、子どもの学力が二極化、低下したり、子どもの問題行動が増えるは当たり前」という事実は、ほとんど振り返られることはありませんでした。

 本質はおきざりにされたまま、子どもたちがうまく育たない原因は「学校(教師)が悪いから」という雰囲気で語られ、「教員の質の問題」や「学力向上にはゆとりではなく競争が大事」という論調がつくられていきました。

「ゆとり教育」の見直し

 そして2005年、ついに「ゆとり教育」の見直し論争が始まりました。

 確かにその導入からの経過をきちんと見ていけば「ゆとり教育」が子どもによいものをもたらしたとは言えません。だから、その見直しをはかることには、私も異論がありません。

 でも、「ゆとり教育見直し」を声高に叫んだ人たちが主張する「ゆとり教育見直しの必要性」は、私が考える理由とはまったく違いました。

 彼・彼女らの主張は「週休二日制や教科内容の厳選(三割削減)などの生ぬるい『ゆとり教育』が学力低下を招いた。だから子どもたちをもっと競争させ、たくさん勉強するようにしなければならない」というものでした。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ

2010年06月28日

本音とたてまえ、オモテとウラ(6)

 「ゆとり教育」の見直しに拍車がかかったのは、教育「改革」に熱心な安倍晋三元首相が誕生した2006年です。

 安倍元首相は教育再生会議(会議)という機関を設置し、「これからの教育の在り方」に熱心だった人です。

 会議では「教師の質の確保」や「競争教育の必要性」「事業時間の増大」などが声高に叫ばれるようになり、2007年に開始された全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)や昨年始まった教員免許更新制への道筋がつくられました。

すごい出来レース

 まるで出来レースのようです。

 今回のブログの2回目で書いたように、そもそも「ゆとり教育」は平等教育を解体し、公教育費削減に向けて「出来る子には手厚く、それ以外には最低限」の教育に移行させるためものも。学力を二極化、低下させることを承知での施策と言っても過言ではありません。

 でも、そんなことを言ってしまえばだれも賛成しません。だからこそ、「ゆとり教育」という名前を付け、本音が見えないように隠したのです。

 かくして世間には「学校(教師)には任せておけない」との不安が蔓延し、比較的お金がある保護者は子どもを学習塾に行かせたり、教育産業を利用するようになりました。文部科学省の「子どもの学習費調査」によれば、公立小中学校に通う子どもがいる家庭の学習自塾等にかける費用は年々、最高額を更新しています。

 東京都では低所得層の子どもに塾代を融資する対策が始まり、学習塾と提携した放課後学習や特別講習を行う公立校もめずらしくなくなりました。
 文部科学省の「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査」によれば、「学習塾通いが過熱している」と考える保護者は6割もいるのに、それを止めることはできずにいるのです。

 一方、収入の格差が広がる中で低所得層の子どもはそのまま放置されることになりました。

進む企業の学校参入

 さらに付け加えれば、「学校の外で」教育産業に頼らねばならないようにするのと同時に、学校の中にも多くの企業が入って来られる仕組みも整えられました。

 今や、大手金融機関による金融経済教育、ジャンクフード会社による食育、携帯電話会社による携帯電話の使い方の授業などはまったくめずらしくありません。

 それらの授業を通し、企業はサブリミナル広告よろしく商品に親和性をもたせる授業や、いかに自社製品が安全かということを子どもたちに植え付けます。

 私にはとても危険な行為に見えるのですが、こうした企業による教育は「企業による社会貢献(CSR)」と呼ばれ、教育関係者や行政機関の人間でさえ、ほとんど疑問を持つことなく進められています。
 
 実はこうした「企業の社会貢献」ができるようにまでの話にも、いろいろとウラがあるのですが、それはまたいずれの機会に詳しく書くにことにしましょう。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ

本音とたてまえ、オモテとウラ(7)

 進む学力低下、増える子どもの問題行動、ぬぐえない学校(教師)不信のスパイラルの中で、教育基本法はいとも簡単に「改正」されてしまいました。
 憲法とも連動した国の基幹法でもあるとても大事な法律なのに、その理念や在り方については、ほとんど議論されないまま・・・。

 子どもの成長発達を援助するための国家の責務を定めた国連の条約であり、歴史的、科学的、国際的な英知が詰まった子どもの権利条約も、まったく無視されました。
 
 このときもまた、一人ひとりの子どもが生来持っている能力を最大限に伸ばす人間教育から、国際社会で勝ち残れるような企業(国家)利益をもたらすことができる人材教育へと理念の大転換を果たす法「改正」であることはいくつものオブラートに包まれ、隠さました。

「大競争時代を生き抜く力を持つ子どもを育てる」ーーそんな「改正」に向けたスローガンは、愛するわが子の行く末を案じる親心にかなり強く響いたことでしょう。

「最小不幸社会」への期待と現実

 そんなことを書いているうちに、世の中は鳩山政権から菅政権に・・・。
 鳩山前首相とは違い、菅首相は市民運動からのたたき上げ。巷でも「とてもクリーンなイメージ」と語る人が多いようです。

 そんな菅首相が目指すと言う「最小不幸社会」。その指さす方向を信じて応援すれば、「世の中、きっと良くなるに違いない」という期待もふくらみます。

 でも、そう語る一方で、菅首相は「行政に依存しない新しい公共」や「地域主権」「さらなる規制緩和(民間開放)」も声高に叫んでいます

 福祉を厚くするのであれば、生存や保育、教育など、生活の根幹に関わる部分の行きすぎた規制緩和をまず是正しなければなりません。あらゆる国民が安心して行政に頼ることができる仕組みも必要です。

 国の負担金を減らして福祉や教育の水準を地域にまかせるのではなく、まず国が基準をつくり、その基準に見合った公教育や公的保育、福祉など出来るよう交付金を出さなければなりません。そうしなれば、大阪府のように地方の首長の考えによっては福祉や教育などに回すお金が削られてしまう可能性があり、地域格差がますます開いてしまいます。

本質を見抜く目を持ちたい

 すでに民主党が提案した労働者派遣法や障害者自立支援法の改正案を見れば、党としての民主党が「ひとりひとりの生活をいちばんに」考える政党でないことは見えてきます。
 野党時代に民主党がつくった教育基本法改正案では、自民党のそれよりも「競争時代を生き抜く道具」として子どもを見ていることが鮮明です。

 そうした民主党が壊そうとしているのは本当に官僚政治なのでしょうか? 官僚ではなく、福祉や公教育を支える国(行政)の仕組みのようには思えるのは、私だけでしょうか。

 民主党が政権交代を果たした昨年9月の衆議委員議員選挙前は、酒井法子被告の事件でマスコミは大賑わい。今回は相撲賭博問題で、国の命運をかけた参議院議員選挙が吹き飛んでしまう勢いで、立候補者の素顔も、各党の公約もよく見えないまま投票日に突入です。

 日々、相撲賭博報道にやっきになるマスコミの様子は
「時の権力にとって不都合なことを国民に知らせずにすむよう、スケープゴートをつくっている」
 ーーかつてマスコミの末席にいた私には、そんなふうにも見えてしまいます。

 情報があふれかえる現代だからこそ、「ことの本質を見抜く目を持ちたい」。そう強く感じる今日この頃です。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ