2010年05月の一覧

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2010年05月06日

『子ども報告書』ができました!(7)

 なぜ、子どもたちがそんなにも孤独なのか。総論は、こんなふうに書いています。

「おとなは『あなたが生きられる場所はここだけよ』と壁を設置して、その壁を乗り越えられない時には徹底的に子どもに烙印を押します。

 その壁によじ登ってバタンと倒れて痛んで、泣いて、だれかそばいて、『大丈夫、また登ってみよう』と言ってくれるなら、壁はいくらでも乗り越えられます。けれど、今、おとなが私たちに言っていることは、よじ登ってバタンと倒れてしまったとき、痛みを感じるな、苦しむな、痛いと思ったら終わりだ。だらしない。そんなやつ脱落だ。愛される資格もない。そういうことなのです。

 私たちは誰かに愛されたいと願い、たとえそれがおとなの所有物になることであろうが、親自身の商品価値を上げるための道具であろうが、必死になっておとなの揺れる心に付いていこうとします。けれど、おとなは私たちの揺れる心に一度でも向き合おうとしたでしょうか? 一瞬の『負の感情』に苛まれた私たちを抱きしめて、共に苦しんでくれたでしょうか? 

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「その『絆』を断ちたいわけじゃない」

 でも総論は、ただおとなを批判し、「おとななんかもうあてにしない」と言ってはいません。
 それとはまったく逆の結論になっています。

「毎日自分の身に降りかかる様々な価値や評価に疲れて、私たちは誰に何を認めてもらえば良いのか分からなくなりつつあります。
 それでも、きっと、私たちは国に認められるため、企業に認められるために生まれてきたわけではないはずです。いちばん身近なだれかにきちんと認められたい。ただ、それだけです。ただ、それだけの「糸」を手繰り寄せようと必死にもがいているのです。だからどうか、その糸を切ろうとしないでほしい。

 すべての糸を断ち切って、皆がバラバラに点在しているような社会はきっと誰も幸せを感じられない世界ではないでしょうか。
 そんな世界に生きるために、私たちは生まれてきたはずじゃない。私たちの母や、父や、先生だって、そんな世界を私たちに見せるために生きてきたはずじゃない。今こそ、点を線で結んで、繋がりあって、一人ひとりがしっかりだれかと向き合える、不安に怯えなくていい世界を」

国連に届け! 子どもたちの声

 今月末、そんな子どもたちの思いを手に、私もジュネーブ(スイス)にある国連に行ってきます。
 子どもの権利のための国連NGO・DCI日本(http://www.dci-jp.com/index2.html)の仲間も一緒です。

 子どもの権利条約は、その批准国に対して5年ごとに国内の子ども状況や、子どもの権利条約の実施状況を国連「子どもの権利委員会」(国連)に提出することを課しています。そして、国連はその政府報告書と、おとなから集めたNGOの報告書(すでに提出済み)をもとに審査を行うのです。

 第3回目になる今回は、5月27・28日が審査日です。
 結果については、またこのブログでもご紹介したいと思っています。

 どうか、どうか、子どもたちの声が届く結果が出ますように!! 

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2010年05月14日

本音とたてまえ、オモテとウラ(1)

 耳ざわりのいい言葉やフレーズを聞くと、ついつい「それってほんと?」と、真意を疑ってしまう自分がいます。
 ひねくれ者であるうえに、経験上、本音と建て前がかけ離れたものほど、きれいなオブラートに包まれていることが多かった気持ちがするからです。

 最近、私が気になるのは地域のさまざまなサービス。地方負担が増える中で、サービスが低下するに連れて、そのネーミングはどんどんフレンドリーな雰囲気になっています。
 たとえば説教ばかりする「さわやか相談員」、まったく相談に乗ってくれない「くらし応援室」、動物を処分する「動物ふれあいセンター」、子どもを縛る「子ども生き生きプラン」などなど・・・。

 みなさんもお心あたりはありませんか? 

うさんくさい「絆」

 鳩山首相が大好きだという「絆」という言葉もそうです(谷垣氏のパクリ? 今年の漢字で鳩山首相はなぜか「絆」)。
 もともとは人と人とのつながりを差す、とても良い言葉であることは分かっているのですが、最近の使われ方がどうも気になります。

 民主党の子ども施策の目玉である「子ども手当」が、今まで子どもの居場所(人間関係)を保障してきた保育や教育などの予算を取り上げ、各家庭がそのお財布状況に合わせて消費活動をするようばらまかれるものであるという事実が象徴するように、民主党はけして「絆」を大事にする政党ではありません。

 事業仕分けは、今まで「人と人とのつながり」を前提に行われたきた福祉や教育といった分野の事業までを、企業に丸投げし、その儲けの対象とすることになんら躊躇しない政党であることを明らかにしました(事業仕分け 「民業圧迫」と予算減)。

 それなのに「友愛」だの「絆」だのという言葉を使う首相。
 そのウラにはまったく違う真意、もしくは言葉の解釈があるように思えてしまうのは、うがった見方なのでしょうか?

「ゆとり教育」見直し

 そんな私が、今年度になって、かなりげっそりした気分にされられたオモテとウラを感じる言葉のひとつが「ゆとり教育」です。

 昨今、「ゆとり教育」は、「見直し」や「路線変更」というフレーズと言葉とセットで使われることが多いのですが、過去を振り返ってその中身や導入の経緯をきちんと検証することもなく、ただただページが増えた教科書と、それが学校現場に与える影響について、表面的な議論ばかりが飛び交っています。

 そして中には「教科書が厚くなったのだから、子どもの学力は上がる」という、びっくりするような楽観論まであったりします。

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2010年05月20日

本音とたてまえ、オモテとウラ(2)

 そもそも「ゆとり教育」は、子どもにゆとりある学びを保障するためにスタートしたものではありません。

 その中身は、
「どんな家庭に生まれたどんな子でも、等しく教育を受けられる」
 という平等教育を解体して、公教育費を削減させるために
「出来る子には手厚く、それ以外には最低限の教育」
 へと、日本の教育を変えていくための装置として準備されたものです。

 いったいどういうことなのか。
 「ゆとり教育」の現実や、批判論議を振り返りながら、説明したいと思います。

「ゆとり教育」批判のきっかけ

 私が「ゆとり教育」について、当事者(保護者や子ども、教師)についてよく話を聞いたのはその批判が高まりはじめた2004年から2005年にかけてでした。

 批判の直接的なきっかけは、2004年末に公表された二つの国際学力テストの結果です。
 一つはPISAという経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査。もう一つは、TIMSSという国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査です。

 とくにインパクトが強かったのは、PISA。いわゆる読み書き計算などの机上の学問ではなく、子どもの生きる力=「実生活の中で使える知識や技能」を測るとされたこのテストで、読解力が8位から1位に、数学的応用力が1位から6位になったのです。

 しかも、「ゆとり教育」のスローガンは「子どもたちに『生きる力』を!」でした。子どもたちに「生きる力」をつけてもらうために、週休二日制にしたり、教科内容を削減したり、「総合的な学習の時間」(総合学習)をスタートさせたはずでした。

学校からゆとりを奪った「ゆとり教育」

 実は、これら「『生きる力』をつけてもらうための取り組み」にも、さまざまなカラクリがあるのですが、その話をする前に「ゆとり教育」の現実についてふれておきたいと思います。

 当時、私がよく聞いたのは「『ゆとり教育』が始まった頃から、学校にはゆとりが無くなった」というセリフでした。

 たとえば、小中学生の親でもある中学校教師の方は、こんなふうに「ゆとり教育」について話していました。

「授業時間が減って総合学習が入ったことで、子どもは教科の宿題と総合学習の調べ物、そして受験勉強に追われるようになりました。子どもに興味を持ってもらえるようなゆとりある授業ができ、子どもが自分のペースで考える時間のある総合学習なら『生きる力』につながるかもしれませんが、今の学校にそんな余裕はありません。うちの子どもは、教科の宿題はせずに総合学習の調べ物を優先させています。週休二日になった分、平日の帰りが遅くなってとてもすべてをこなすのは無理なのです」

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2010年05月24日

本音とたてまえ、オモテとウラ(3)

 教科内容の削減(いわゆる教科書の3割削減)も本当の「ゆとり」にはつながりませんでした。

 なぜなら、国連「子どもの権利委員会」から二度にわたってその見直しを勧告されているほどに競争主義的な受験教育体制は、そのままだったからです。

教科書が薄くなっても 

 たとえ教科書が薄くなったとしても、受験を中心とした教育システムや社会の在り方が同じであれば、「教師が教えなければならない内容」が変わるはずがありません。
 ほんのちょっと考えればだれでも気づくことです。

 一方、「ゆとり教育」が始まったことで教科の授業時間は減っています。そのため、子どもがゆっくり考えをめぐらしたり、試行錯誤したり、体験をもとに何かを学んでいく機会はぐっと減ってしまいました。

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 たとえば子どもは、磁石で砂鉄を集めて遊んだり、ゆっくりと観察しながら植物を育てたりしながら、理科の基礎を育てます。みんなでおいしいジュースを味わいながら、その量を量ったりして、リットルの単位を実感したり、重さの概念を知っていきます。

 ところが「ゆとり教育」導入後の「ゆとりのない学校」では、そんな授業をする余裕が無くなってしまったのです。
 結果的に学校は子どもに、今までもよりも少ない時間、薄い教科書、体験をともなわない学習しか提供できなくなりました。

学習には積み重ねが必要

 しかも学習というものは積み重ねです。
 次に進むには、一見、難しく見えても押さえておかねばならないポイントというものがあります。「教科書から削除されたから」と、単純に省略すると、かえって子どもが理解できないことも多いのです。

 たとえば漢字が書けるようになるためには、まず平仮名の成り立ちを知り、カタカナとの共通性や違いにワクワクしたり、不思議に思ったりしながら、「文字」を自分の中に取り込む必要があります。

 文字をならべると意味のある言葉ができることを楽しむ時間も重要です。それを楽しみながら、ある漢字一文字を使うと、意味のある言葉が表現できることに驚いたり、部首やつくり、へんなどがいろいろな意味を持っていることに興味をかき立てられたりしながら、漢字という「図柄(絵文字)」が「言語」として定着していきます。

 こうした機会をすっとばして「一年生で覚える漢字の量を減らす」と言われても、子どもは混乱するばかり。「基本的な漢字の仕組みが分かっていないから、あり得ない場所に『`』を付けてしまったり、考えられない方向に『払い』を付けたりする」(中学校の国語教師)なんてことが起こります。

数字全体のイメージがつかめないまま

 数字についても同様です。「○年生までは小数点は教えない」とか「3桁以上の計算は来年」として、桁数の少ない計算式をたくさんこなせば計算力がアップするわけではありません。

 逆にこうした切り貼りのような学習をしていれば「小数点以下やゼロという数字全体のイメージがつかめないうちに計算方法だけを習うため、計算ができても数の概念が分からいままになってしまう。中には小数点以下が読めない子どももいます」(小学校の教師)という自体が生じるのは当たり前です。

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