2010年04月の一覧

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2010年04月06日

『子ども報告書』ができました!(4)

 そろそろ話題を「子ども報告書」に戻したいと思います。

 ・・・が、まずはここでおわびがひとつ。
 諸事情あって、今回のブログから一部の掲載を削除させていただきました。それにともない、全体のタイトルも変更させていただきました。
 ずっと続けてブログを読んでくださった方には、途中での変更となり、大変失礼いたしました。
 お詫びしたいと思います。

寂しさで壊れそうな子どもたち

 さて、本題です。
 今までにないくらい、読んで切ない気持ちになった第三回『子ども報告書』。
 「親子関係」について考えさせられる内容がぎっしりだった報告書に、共通していたのは「このままでは寂しくて壊れてしまう」という、悲鳴のようなメッセージでした。

 これは過去2回の『子ども報告書』にはなかったことです。

 過去の『子ども報告書』でも、生徒会活動に教師が口を出してくる問題、生徒の自尊心をずたずたにする教師の暴言や体罰のこと、理不尽な校則について、居場所になっていた夜間高校が統廃合を止めたいという訴え・・・いくつもの出来事が、ひとりひとりの体験からリアルにつづられていました。

 そして「おとなの都合に合う子どもだけを受け入れるのではなく、たとえ“ダメな子”であっても、こっちに顔を向けて欲しい」というメッセージもありました。
 でも、そこには「どうしておとなは分かってくれないんだ!」という憤りのようなものが感じられ、子どもたちが怒っている分だけ、希望も感じられたのです。

怒りは大切な感情
 
 怒りは、とても大切な感情です。
 自尊心が傷つけられたときにわきおこり、私たちに「自分が脅かされている」ことを教えてくれます。

 そうした感情を感じることができればこそ、私たちは自分を守り、危険なものを遠ざけ、良くないものを良いものへと変えていくことができます。

 怒りのエネルギーが、一歩間違えばとても破壊的なものになってしまうことも事実ですが、きちんと昇華させることができれば、大きな創造性につながります。
 たとえば世界平和を歌うアーティスト、世の不条理を描く作家、自らの辛い過去を他の人の支援のために活かすサバイバーの方たちなどの仕事がこれに当たるでしょう。

怒りを感じられない報告書

 身を守る機能を持つ怒り。その源泉をたどると、乳幼児の「他者を求める叫び」に行き着きます。
 未熟なまま産まれてくる人間は、絶えず自分を気にかけ、寄り添い、そのニーズを満たしてくれる養育者(多くの場合は母親)がいなければ生き延びることはできません。

 だから、養育者から離された乳幼児は、泣き叫んで養育者を呼びます。ひとりで、そこに置かれることは飢えて死ぬことを意味するから、必死になって自分のニーズを伝え、それを満たしてくれるよう訴えます。

 そんな泣き叫ぶ乳幼児の心には、恐怖と悲しみをまとった「なぜ自分を放っておくんだ!」という怒りがあり、自分をおびやかすものから「解放して欲しい」と、養育者に求めています。

 ところが、今回の『子ども報告書』からは「怒り」がほとんど感じられないのです。

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2010年04月16日

『子ども報告書』ができました!(5)

 それから、今回の『子ども報告書』のもうひとつの大きな特徴。それが「母的環境」(自分をそのままで認め、ニーズを汲み取り応じてくれる関係のこと。
 必ずしも母親によってもたらされるわけではありません)の喪失です

 自分で自分を守ることなど不可能な子どもは、どうあっても「母的環境」を必要とします。それがあってはじめて、世の中は安全だと知り、自分はここにいてもいいと思い、自分の力を伸ばすこともできるようになります。

ダダ星人(文中参照)になって

 ところが今回の「子ども報告書」には、そうした関係性の上に立っていると思える子どもがほとんどいません。

 それどころか、

「どうにかして親(身近なおとな)に振り向いてもらいたい」
「自分を評価して欲しい」

 と頑張って、頑張って、さらに傷つく・・・。
 そんな様子が見て取れます。
 
 親との間に「母的環境」をもてなかった影響は、学校生活や友達との関係など、さまざまな場面にも影を落とします。

「キャラをつくらなければクラスにいられない」
「本当の自分はどこでも出せない」
「自分を認めてくれる性産業に心惹かれていく」

 などなど、さまざまなエピソードが語られています。

 いつでも他者を気にして、自分を評価してくれる人を求めて、その場で必要とされる人にならなめればいけないつらさ。

 ある子どもは「ウルトラマン登場するダダ星人(三種類の顔を持っていて、それらを使い分けることができる)のように、顔や正確を変えないとその場にいることができないなんて、苦しすぎる」と表現しています。

結果をもたらさなければ愛は手に入らない?

 そんな子どもたちの辛さに、周囲のおとなは本当に無頓着です。
 きっと、子どもの気持ちを考える余裕もないほど、おとなたちも追い詰められているのでしょう。
 
 子どもは、さまざまなSOSを出します。
 ときには本当にストレートに、いじめられていること、否定せずに話を聞いて欲しいこと、自分なりに頑張っていることを認めて欲しいこと・・・などをぶつけます。

 しかし、そんな子どもたちの思いを受け止めようというおとなは、「子ども報告書」には登場しません。
 どの子も「おとなが気にしているのは、受験や成績、部活動での結果だけ。だれも自分という子どものことなど見ていない」と、つづります。

 その姿は私がどうしても好きになれないオリンピックで、メダルという結果をもたらさなければ価値(愛)を手に入れられないアスリートとダブって見えます。

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2010年04月26日

『子ども報告書』ができました!(6)

 本当は、『届ける会News Letter』に掲載された報告書をすべて読んでいただきたいくらいですが、分量の関係もあるのでちょっと割愛。

 今回は「子どもの声を国連に届けるプロジェクト」世話人一同による総論のエッセンスをご紹介したいと思います。

 本当は、この総論だけでも全文読んでいただきたいところですが、かなり長くなってしまいますので、少しずつはしょったり、手を加えつつ、ポイントだけをお伝えしましょう。

「先進国・日本に生まれて」

 総論は「先進国・日本に生まれて」という小見出しではじまり、次のように続きます。
「町中に溢れる人やモノ。TVの電源を入れれば味わえる感動。遠くの人とも関係し合えるインターネット。いつでも誰かと繋がれる携帯電話。

 そんな恵まれた環境の中にあって、なぜか私たちは“からっぽ”な自分をいつも感じ、自分ではない誰かを常に演じているような感覚に囚われています。おとな達はそんな私たちを『思春期だから』とか『自分が無いから』と言い、『おとなになればそんな思いはしなくなる』と私たちに早く自立することの大切さを説きます。しかし、この思いは子どもの頃にも、そしてその時期を過ぎても、私たちの体の中に一生付きまとう感覚のようにべったりと張り付いて離れないでいるのです」

おとなが求める子ども像

 そして、「子どもは経済的に豊かな国であり続けようとするおとなの苦しみを理解し、必死で努力し、演技をしている」と述べ、おとなたちの言動をこんなふうに分析しています。
「おとなは心の持ち様さえも評価対象にして、私たちに自分の感情を相手の求めによってコントロールすることを求めました。先生が求めている正解を言える子ども。最初から決められた目標に対して『結末の決まった』議論を熱心にやる振りのできる子ども。

 そんな、おとなの求めるものをオートマチックに出し入れできる子どもたちが、結果的には社会に『適応力のある人材』として認められ、勝ち残っていくのです。

 しかし、そんな積み重ねで、ある瞬間「自分のなさ」に気付いた時に、自分の顔や性格を変えないとその場に存在することが許されない不安感に押しつぶされそうになります。その恐怖から逃れるためにさらに揺れる感情に蓋をし、さらに何も感じない無機質な存在でいようとします。その繰り返しで最後には『感情が希薄な最近のコ』と言われおとなから揶揄されることになってしまうのです」

「孤独だった自分」という共通語

「でも、私たちは機械にはなれない」と、総論は続けます。

 そのうえで、たとえば10代の読者がキャバクラ嬢に大きな魅力を感じる裏には、「孤独だった自分」という共通語があると記してます。
「『ひとりぼっちの自分を愛してくれる男がいる華やかな居場所』として、経済的に豊かな先進国の子ども達が本来ならば身を投じる必要のないはずの性産業の世界にさえ子どもが魅力を感じ、『ここなら生きられる私の居場所』として夜の世界を選択することさえあるのです」というのです。

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