おとなたちが国連「子どもの権利委員会」に提出した報告書に引き続き、「子どもの声を国連に届けるプロジェクト」(略称「届ける会」)も、3回目になる「子ども報告書」を完成させました。

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「子ども報告書」完成までの長い道のり

思えば第3回目の「子ども報告書」ができるまでの道のりは長い長いものでした。

前回、国連での審査が行われたのは2004年1月。帰国後、「届ける会」の子どもたちは、国連でのプレゼンテーションのことや、「子ども報告書」を報告する会など、あちこちに呼ばれ、息つく間もない忙しさでした。

そんな疲労困憊状態から子どもたちが抜けだし、「自分たちと同じように国連に子どもの声を届ける子どもたちを募ろう」と、「届ける会06」を立ち上げたのが3年半ほど前。

でも、それまでに集めたカンパは、第2回めの「子ども報告書」づくりと、国連への旅費にほとんどが消え、プレゼンテーションした子どもたちのうち、半数は“新しい自分の道”に向けて旅立っていました(もちろん、旅だった子たちも「届ける会」の仲間との付き合いは続いていましたがなかなかその集まりに顔を出すことが難しくなっていました)。

全国の子どもたちの声を集めたい!

仲間もお金も減っていく中で、残ったメンバーが抱いた野望。それは「第2回めよりもっともっと広い範囲の、全国区の子どもにも参加してもらうこと」でした。

第2回目のときには、結局、関東近辺の子どもたちしか国連には行かなかったからです。
そして、その思いを実現すべく「子どもの声を国連に届けるプロジェクト」として新たに生まれ変わったのが一昨年のこと。
結果はみごと大成功。今回は東北から関西までの広い地域にわたる「子どもの声」を集めて報告書にすることができました。(続く…

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今回集まった子どもたちの国連への報告書(「子ども報告書」)を見ていてつくづく感じたこと。それは、

「こんなにも孤独で生きづらい毎日を生きているのか」

ということでした。

子どもたちの多くが身近なおとな、とくに親との関係に傷ついていました。
それでも親のことが好きで、愛されたくて、受け容れて欲しくて、もがいていました。

過去にも2度「子ども報告書」は提出されていましたが、報告書を読んでここまでやるせない気持ちになったことはありませんでした。

ひねくれ者の意見

いつものことですが、ここでちょっと脱線。

実はつい最近、この「親子関係」。とくに「母−子」関係についてかなりいや〜な気持ちを味わいました。
きっかけは、言わずと知れた世界の平和祭典・オリンピックです。

たぶん、私がひねくれ者なのでしょう。
どうもオリンピックというイベントを好きになれません。

おっしゃるとおり、何かに純粋に打ち込む人の姿はとても美しいものです。ひとり一人の選手が、長い間積み上げたことを披露する素晴らしい晴れ舞台だとも思います。結果としていい成績が残せるなら、本当に素敵なことだと思います。

大切なものを見失いそうになる

でも、ダメなのです。
「ただ日本人である」ということだけで一斉に応援する観衆の様子。オリンピックが掲げる美しい建前の裏にさまざまな思惑や、けして知りたくない本音が隠れている感じがして、どうも受け容れられないのです。

「結果がすべてではない」と言いながら、メダル獲得に血眼になる事実。巨額のお金を投じた「平和の祭典」の影で、福祉にはお金を出したがらない政府。「選手たちを応援する」といいながら、自社のPRのためにスポンサーになる大企業。いつの間にか「日本のため」に頑張らないといけないようにしむけられる選手たち。

そんなオリンピックがもたらす高揚感や熱狂的。それらが私たちをどこかへ押し流していく雰囲気が、何か大切なものを見失わせるような気がして、うさんくさい感じがしてしまうのです。(続く…

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そんなわけでなかなか気持ちを込めて応援したり、楽しんだりすることができないオリンピックなのですが、今回はその気持ちが顕著でした。

それはオリンピック開始前から終了後まで続いていた「母に捧げるメダル」や「母がいたからここまでこれた」という、各選手をめぐる報道のせいです。週刊誌やワイドショーだけでなく、新聞までもが母への感謝と大絶賛に埋め尽くされていました。

親子にとって本当に幸せ?

「家族の支えがなければ続けられなかった」というのは本当のことでしょう。自分を支えてくれた人に感謝するのは当然のことですし、そのこと事態は、とても素晴らしいことだと思います。

しかし、小さな頃から母親が子どもの練習につきっきりで過ごすというのはどうなのでしょうか。家族の生活の中で、あるひとりの子どもの練習が何よりも優先されるというのは子どもにどんな影響を与えるのでしょうか。

練習を続けるには莫大なお金もかかります。もし、飛び抜けて裕福な家庭ではなかった場合、家族が経済的にも苦労しながら、自分の上達だけを望み、大きな期待をかけられるというのは本当に子どもにとって幸せなことなのでしょうか。

さらに言えば、パートナーと家族をつくるほどの年齢になった子どもに「お母さん(お父さん)のためにメダルを取る」と言われることは、親にとって幸せなのでしょうか。

これまたひねくれ者の意見

これもまたひねくれ者の意見で恐縮ですが、もし私がオリンピック選手の母親だったどうかと考えるのです。まったく仮定の話ですが、自分の子どもがそんな偉大な選手になって、そんなセリフを口にしたらどうなのかと想像してみるのです。

自分の人生を楽しむ中で最高のスポーツと出会い、新しいパートナーと力を合わせ、自分のためにベストを尽くすというのなら、親として応援もできます。「周囲の人に感謝してメダルを目指してね」と、笑顔で送り出すこともできると思います。

でも、もし「お母さんのためにメダルを取る」と言われたら・・・。

「そんなこと重たすぎるから勘弁してくれ」

それが、私の本音です。

そして、「ああ、私は子どもの人生をこんなふうに支配し、コントロールしてきた母親だったのか」と、改めて愕然とすることでしょう。

なぜならオリンピック選手となった子どもが「お母さんにメダルを捧げる」と語ることは、「あなたのために自分の人生はあった」と言うに等しいことだと思えてしまうからです。(続く…

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