2009年07月の一覧

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2009年07月03日

生育歴が無視される裁判員制度(9)

孤独と絶望から犯罪者予備軍に

 それによってようやく、「信じたあげくに捨てられるかもしれない」という恐怖から抜け出せます。しかし一方で、より孤独にさせ、絶望の淵へと追い込みます。

 そして、恨みやねたみを増大させ、「自分などどうなってもいいんだ」と思い、新たな犯罪に手を染めていきます。

 今回の裁判員制度は、本当であれば生き直すことができたかもしれない子どもたちから、その機会を奪い、孤独と絶望、そして恨みの中へと定着させ、犯罪者予備軍とも呼べる人間をつくってしまいます。

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裁判員制度を即刻、見直すべき

 本当に被害者を救い、新たな加害者を無くし、国民のものとなるよう刑事裁判を改革するというなら、まず警察による長期間の取り調べを無くすべきです。

 その上で裁判官や弁護士を増やし、警察・検察側だけが有利になることがないような新たな仕組みをつくり、被害者の悲しみを共有できる人間を用意して事件の全体が明らかになるような裁判を行うべきです。 

 しかし、つい最近、「被告人は栃木県で女児を殺害した犯人ではなかった」とされた足利事件においても、当時の捜査や裁判の問題点を検証することはありませんでした。ただ再審が決定されただけです(参考サイト)。

 こんな不誠実な司法がまかりとおる社会で始まっただれも救わない裁判員制度。それどころか、私たち国民に、その責任を押しつける裁判員制度。こんな制度は、即刻、見直すべきです。

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2009年07月09日

ひとりぼっちでは生きていけない(1)

195.gif この相談室のブログに書いていた「地域猫」の話が、本日(7月8日)に出版されました。タイトルは『迷子のミーちゃんーー地域猫と商店街再生のものがたり』(扶桑社)です。

 考えてもいなかった展開に、ただただ驚くばかりです。
 ブログにミーちゃんの話を書いたとき、私が願っていこと。それは、「ミーちゃんが見つかりますように」ーーたったそれだけでした。

 本にも書かせていただきましたが、そんな小さな“つぶやき"に過ぎない文章が、まさか本になるとは、想像だにしていなかったのです。

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あらすじ

 ミーちゃんは、再開発が進んで寂れてしまった商店街に住み着いていた三毛猫の女のコです。
 もう10年以上、商店街で暮らし、まるでポストや電柱のように風景に溶け込んでいました。みんなミーちゃんがいることは「当たり前」になっていたのです。
 
 ところがある日、ミーちゃんは行方不明になってしまいました。本が出版された今も、まだ行方は知れません。

 ミーちゃんがいなくなってから、通勤通学途中で毎日ミーちゃんにゴハンをあげていた人たちや、商店街の料理屋さん、金物屋さん、美容室の人など、ミーちゃんを可愛がっていたみんなが総出でミーちゃんを探し始めます。

 そして「ミーちゃん、見つかった?」を合い言葉に、商店街には立ち話をしたりお互いお店の前を掃除しあうような関係がつくられ、商店街を通り過ぎていた人々の間に、人の輪が広がっていきました。

いなくなって気付いたこと

 ミーちゃんがいなくなってはじめてみんなは気付いたのです。

 ミーちゃんが「ただそこにいる」ことで、たくさんの人が励まされ、癒され、助けられ、生きるエネルギーをもらっていたことを。
 ミーちゃんを通して、みんなが損得を忘れて飾らない付き合いができ、助け合えていたことを。

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2009年07月15日

人は、ひとりぼっちでは生きていけない(2)

 そう、「ただ、そこにいる」ことで、ミーちゃんは商店街の人々に幸せを与えてくれていました。
 そして、「人は一人では生きていけない」という大切なことを教えてくれたのです。

 小さく、弱く、人に頼らなければ生きていけないミーちゃんに、大きく、強く、“自立して”いるかに見える人間たちが心の豊かさをもらっていたこと。
 ——それは、私にとって「目からウロコ」の大きな発見でした。

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人に頼る存在はあってはいけない?

 私は日ごろ、NGOの活動などを通して、おとなに世話をしてもらなければ生きられない子どもたちと会います。そして、子どもたちがいろいろな意味でおとなの庇護を必要とする「子どもだから」という、たったそれだけの理由で、軽んじられたり、理不尽な扱いを受けたり、必要以上に身近なおとなを支えるよう強要されることを目の当たりにすることもあります。

 また、カウンセリングの場では、「自分は一人では生きていけないダメな人間だ」と、嘆く方にも多くお会いします。
 そうした方々は、社会や親の期待に応えられる「きちんと自立した人間」であろうとして、苦しんでいます。

 たとえば、アフリカの子どもたちのように餓えて苦しんだこともなく、スモーキーマウンテンでごみ拾いをするような生活を強いられたわけでもないのに、“人並みの生き方”ができなかったり、人に頼らずに生きることができなかったりする自分を責め、自らの情けなさをかみしめています。

「子どもらしい」ことはタブー

 90年代後半になり、社会がますます「自己責任の取れる自立した人間」を求めるようになると、そうした傾向はますます強まりました。

 たとえばそれまで、人に甘えたり、頼ったりすることが当たり前とされてきた小さな子どもでさえもそうです。長く、子育て支援にかかわっている友人が、こんなふうに言っていました。

「最近の親は、子どもよりも周りの目を気にしている。少しみんなと同じ行動が取れなかったり、乱暴に振舞ったりするだけで引きずるように子どもを連れて帰ってしまう親もいる。その背景には、ちょっと前なら『子どもらしい』と、微笑ましく受け入れられていた言動でさえ、『きちんとしつけができていない』と思われがちな世の中の雰囲気があると思う」

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2009年07月29日

人は、ひとりぼっちでは生きていけない(3)

 幼い子どもでさえ「子どもらしく」振る舞うことが否定されるのですから、大のおとなが甘えることを許されないのはまったくもって当然のことです。

 今まで以上に、誰かに頼ったり、弱みを見せたりすることは「いけないこと」とされ、何でも自分ひとりでできるようになること、そのために努力することが「いいこと」と考えられるようになりました。

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弱さを見せることは負け

 そうした社会・・・競争によって利益を奪い合う社会、弱さを否定してひたすら前身すすることを求められる社会では、弱さを見せることは負けを意味します。
 
 だから、だれもが「たったひとりでも生きられる完璧な自分であろう」として汲々としています。

 「完璧であろう」とするから、困ったことがあっても助けを求められない。

 自分ひとりではどうにもならないときに、他の人の力をきちんと利用できない。

 とにかく“自立”した人間であろうと頑張るから、人に頼ることは「依存」だと考える。

 弱みを隠して仮面をかぶり、何でもひとりでやろうとするからだれともつながれない。

 「だれかに頼りたい」と思う自分を「情けない」と責める。

 そんなふうに考えて頑張り続け、苦しんでいるクライアントさんはとても多いように思います。

 でも、自分を叱咤激励しながら「完璧を目指そう」としても、無理は続きません。

 よしんば無理に頑張り続けることが出来たとしても、その“ゆがみ”は、心や体、人間関係など、さまざまなところに現れます。

おとなにも安全基地が必要

私たちは、自分をそのままで受け入れてくれる他者ーー金持ちだとか、能力があるとか、容姿が美しいとかなどのいっさいの条件無しに、自らを認めてくれる他者ーーとの安心できるつながりがあって始めて、「自分はかけがえのない存在だ」という確信を手に入れることができ、けして楽なことばかりではない人生を生き抜いていくことができます。

 子どもであれば、たとえ何もできない存在であっても「あなたが世界一愛おしい」と言ってくれ、安心して身を委ねることができるおとな(安全基地)が必要です。

 子どもは安全基地となるおとなとの関係性を通して、その対象と同一化し、たとえそのおとなと離れていても、いつでも一緒にいて「守ってもらえている」という感覚を育てることができます。
 
 おとなになれば、子どものように一方的にだれか頼るということは難しくなりますが、一切の条件無しに、お互いに頼り合い、支え合い、甘え合うことができる他者ーーお互いに安全基地となれる他者ーーとの関係性を通して、安全感や安心感を持って生きて行くことができます。

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