2009年04月の一覧

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2009年04月03日

子どもの権利条約と家族(4)

 こうした国の態度の背景には、やはり「“子ども”という存在をどんなふうに考えているか」という根本的な問題があると思います。

 かつて、このブログの「『教育の原点』を取り戻すために」ほかでも書いたように、日本という国は、常々、子どもを「国の発展に役立つ人材」ととらえてきました。
 その考えがオブラートに包まれていた時期もありましたが、2006年末の教育基本法「改正」では、真意が鮮明になりました。

 以後、子どもが“世界でたったひとつの宝”として成長発達する機会は次々と潰され、国に役立つ人材づくりのための施策が堂々と行われるようになりました。
 
それは教育だけの話ではなく、保育や養育などさまざまな分野で、同様のことが行われています。

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社会の空気に敏感な子どもたち

 こうした社会の空気を子どもたちも敏感に感じています。
 
 3月20・21日にあった「子どもの声を国連に届ける会」の合宿でのことです。
 集まった子どもたちの中から、次のような話題が飛び出しました。

「『役に立つ人間でないと受け入れてもらえない』と思うから、キャラを考えちゃう」

「本当の自分を出すのってとても危険。相手の期待に応えて、キャラをつくっておく方が無難」

「ありのままの自分を見せたら、浮いちゃったり、『KYじゃね?』とか思われる」

「学校とか、他の場所ではここみたいに安心して自分を出せない。いつも評価されている感じ」

「なんか、友達に対しても、その役に立ってないとダメって感じとかするかも」

「つかえねぇ」が飛び交う日常

 そんな話を受けて、ある中学生がこんなふうに言いました。

「そう言えば『つかえねぇ』って言葉、よく使うよね。あれって、友達が『こうして欲しい』っていうときに、その通りのことができないときに言われる言葉だよね」

 確かに私も、若い人たちが「つかえねぇ」と言い合うことをよく耳にします。その多くは、冗談めかした言い方であることが多く、とくに注目してはいませんでした。

 でも、合宿での子どもたちの話を聞いていて、「相手の利用価値を評価する」かのような言葉が日常的に飛び交うことの異常さを改めて感じました。

 少なくとも、私が中高生だった頃、友達が自分の意向にそった言動を取ってくれないからといって「つかえねぇ」と言うことはありませんでした。そんな発想自体が、まったくなかったと言った方がいいでしょう。

 今の子どもたちが、常に他人の評価を受けながら生きており、それがあたり前になっていることを実感した合宿での出来事でした。

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2009年04月13日

子どもの権利条約と家族(5)

 今の日本では、カルデロンのり子ちゃんのような、いわゆる外国人などの「マイノリティー」とよばれる子どもだけでなく、マジョリティーである多くの子どもたちも「自分は“世界でたったひとつの宝”である」という、実感を持って、育つことができない現実があります。

 それは、わたしもかかわっている「第3回子どもの権利条約 市民・NGO報告書をつくる会」がこの3月に完成させた国連「子どもの権利委員会」に提出するための基礎報告書(CD)にも顕著です。
全国各地の、さまざまな立場、領域の人たちが寄せてくれた約400本もの報告からなるCDには、貧困、疲弊、情緒的剥奪などがおおっているおとなたちの現実。そうした日々に追われ、子どもと向き合うことができなおとなたちの苦しみが山のように載っています。その結果として成長発達がゆがめられていく子どもたちの現状が、リアルに描かれています。

 ご興味のある方は、ぜひ読んでいただきたいと思います(基礎報告書CD-ROM発売のお知らせ)。

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社会を、家族を、変えていこう

 今、日本では、子どもも、そしておとなも、「自分は生まれながらに価値があるんだ」と思うことができず、ある者は「他者よりも優秀な人間になって自分の価値を示そう」として疲れ、ある者は幼いうちから始まる競争レースで早々に脱落者にさせられ、あきらめやうらみの中で生きています。

 そんな、子どもが成長発達できない、だれも幸せにしない社会を私たちは変えていかなければなりません。
 そして、ひとつひとつの家族が、子どもの思いや願いをきちんと受け止め、子どもが「自分は“世界でたったひとつの宝”なんだ」と、日々、感じられるような家族へと変わっていかなければなりません。

子どもの権利条約を使って!

 そのためにもぜひ、子どもの権利条約を知り、その理念に触れていただきたいと思っています。

 今年は、子どもの権利条約が国連で採択されてから20周年めになります。
どうかこの条約を「難しい法律」として、絵に描いた餅のように飾っておくのではなく、現実を変えていくためのツールとして手にし、使っていただきたいと思っています。

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2009年04月24日

生育歴が無視される裁判員制度(1)

 この5月から、殺人や傷害致死などの重大な事件を争う刑事裁判に裁判員制度が導入されます。導入を進めてきた人たちは、「裁判の迅速化を図る」「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」など、と言って宣伝していますが、本当にそうなのでしょうか? 

 導入が決まった後になって、各マスコミはようやく裁判員制度の問題点を指摘するようになりました。それによってようやく国民も、法律の専門家ではない一般人が司法判断を下すことの難しさや、裁判員となった場合の義務、義務に反したときの罰則等について現実的な問題としてとらえられるようになってきました。
 
 昨年3月に日本世論調査会が実施した調査によれば、「裁判員を務めてもよい」と答えた人は26%。対して「裁判員を務めたくない」と答えた人は72%にもおよび、「務めてもよい」の3倍にも達しています。
 また、最高裁判所の調査でも、「参加したくない」とする意見(38%)は、「参加してもよい」(11%)の3倍以上になっています。

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なぜ今、裁判員制度導入なのか 

 多くの国民が「裁判員にはなりたくない」と言っている制度をどうして導入しなければならないのでしょうか。そもそもなぜ、裁判員制度導入の話が持ち上がったのでしょうか。

 国民の参加を提言したのは2001年の「司法制度改革審議会意見書ーー21世紀の日本を支える司法制度」でした。

 背景には同じ年に成立した小泉内閣が推し進めた、経済活性化、国際競争力強化のための構造改革、規制緩和がありました。

 構造改革、規制緩和を軸とする小泉改革は、「それまで政府が国民生活を守るために行ってきたさまざまな規制や縛りをとっぱらい、あらゆるものを市場経済に委ねる社会をつくる」ことを目指しました。
 そして国民に対しては、「政府に頼ることなく、自らの意思決定において市場経済に参加し、選んだ結果には自分で責任を取ること」を求めました。
 
 司法においても同様に、「国民が裁判官とともに広くその責任を分担するための仕組みが必要」と考えました。たとえ法律に関する知識がない国民であっても、「国民の健全な社会常識を反映させることができる」として。

 それが、「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」ということだというわけです。

起訴されると有罪率ほぼ100% 

 では、「司法の迅速化」はどこに行ったのでしょう。
 
 その話をする前に、日本の刑事裁判はなぜ時間がかかるのかという話をしたいと思います。

 日本の刑事裁判は、まず警察官と検察官が被疑者を綿密に取り調べるところから始まります。この段階で有罪の証拠を固めてしまうのです。
 取り調べの間、被疑者は警察署の中に設置された代用監獄という場所に、ずっと入れられます。「やったかどうか分からない、犯人の疑いがある人」であるだけなのに、最大で23日間日間もここに押し込まれます。

 この間、外部との接触はほとんどできません。孤立無援の状態におかれ、「お前がやったんだろう」と責め続けられます。疲れ切った被疑者は「どうにかしてここから逃れたい」と思い、検察側に有利な供述をし始めます。

 こうした異常な取り調べが、世界に類を見ない「いったん起訴された場合の有罪率はほぼ100%」という数字を可能にしています。

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