2008年08月の一覧
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2008年08月01日
少年事件と虐待(1)
前回の「絶望と自殺」では、「孤独と絶望の中で生きている子どもたちの痛みに向き合える社会に変わっていかない限り、第二、第三の秋葉原事件が起こる」と記しました。
まるでそれを裏付けるように、ここのところ10代半ばの子どもたちによる事件が相次いでいます。
7月16日には山口県の中学二年生が「親に恥をかかせたい」との理由で起こしたバスジャック事件があり、19日には埼玉県に住む中学三年生が父親を刺して死亡させる事件がありました。また29日には、中学校教師が卒業生に刺されて重傷を負うという事件も起きました。
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埼玉の父親殺害事件
少年事件が起きるたびに、世間は驚き、「とても理解できない」という反応をします。
とくに、今回、埼玉県で起きた父親殺害事件のように、際だったトラブルが見受けられず、容疑者である子どもにいわゆる非行と呼ばれる逸脱行動などがなかった場合は、戸惑うようです。
この事件の家族は、犯行当日に容疑者(長女)が被害者である父親と弟と共に外出し、その後、夕食のカレーを一緒につくり、家族で食卓を囲んだなどのエピソードが紹介され、いかにも「仲の良い家族」のように見えます。
事件後、長女の母親でさえも「大きなけんかもなく普通の父娘で、動機に思い当たることはない」、「いまだに信じられない」などとコメントしています。
現在のところ、殺人に至った動機としては「両親に『勉強しろ』と言われたことへの反感」ということに落ち着きそうな雰囲気ですが、実際には、長女自身がうまく語り切れていない原因がいろいろあるのではないかと思います。
個人的には、長女の「父とは会話が少なかった」、「お父さんが家族を殺す夢を見た」「犯行直前に目が覚めて刺そうと思い付いた」などの供述。そして追試験を欠席した理由や一家の部屋割りなどが気になります。
でも、今、表に出ているだけの少ない情報に頼った推測は避けたいと思います。
理解不能の事件?
動機の解明はさておき、不思議なのはこうした事件が起こるたびに「何が何やらさっぱり分からない」というスタンスを取るおとなが大勢いることです。
不明な点はあるにせよ、少なくとも「殺さねばならない」ところまで追い詰められた子どもがいたという事実があるのです。
「人を殺す(殺そうとする)」のですから、それは大変なことです。しかも多くが、親や教師など本来、最も愛すべき人間との関係で事件を起こしているのですから、よほどの事情があったと考えてしかるべきです。
それにもかかわらず、「とくに原因と思われることもない」などとコメントする識者やニュースキャスターが本当にたくさんいます。
レッテルを貼って一件落着
“理解不能”とされた子どもに対応するのは、司法や医療です。精神鑑定が行われ、昨今だとアスペルガー障害などの名前が付けられて、一件落着することが大半です。
こうした診断名が付くことで多くのおとなはホッとします。
「ああ、やっぱり病気(障害)があったんだ」
そう思うことができれば、容疑者に“正常ではない”というレッテルを貼ることが容易になります。そうなれば“あっち側(自分とは違う世界)の人”として切り捨ててしまえます。自分の親との関係や自分の子育てが脅かされる心配もありません。
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2008年08月07日
少年事件と虐待(2)
万が一、少年事件の容疑者が自分と同じ側にいる“普通の人”なんていうことになったら一大事です。
特殊な病気や障害のせいにできないのですから、理にかなった原因があると考えなければいけなくなります。「問題行動」という言語化できなかった子どものメッセージをきちんとくみ取る必要に迫られます。
これは思いの外、大変です。
当の子ども自身、自分の行動の裏にある真意に気づいていないことが多々あります。
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少年の心の闇
子どもはおとな以上に、自分の感情や欲求をうまく言葉で表すことができません。だから今、自分ができる唯一の方法で、自分の思いや願いを伝えようとします。赤ちゃんであれば大声を上げて泣いて、幼児であればちょっとすねたように無言になって、思春期であれば反抗的な態度で・・・というように。
こうした言語化されないメッセージは、おとなには受け入れがたいことがしばしばあります。おとなからすると挑戦的で生意気な態度だったり、「非行」としか思えない行動であることもあります。
声にならない子どものメッセージは、おとなの側に「子どもの気持ちに寄り添いたい」という思いがなければ、その真意は聞き取ることはできないのです。
少年事件が起こるとよく使われる「心の闇」という表現を原宿カウンセリングセンターの信田さよ子所長はこんなふうに批判しています。
「『少年の心の闇』という言葉があります。私はこれほどこっけいな言葉はないと思います。少年の心に闇などないと思うからです。それは周囲のおとな、とくに親が子どもを理解不能と思っているだけの話なのです」(『子どもの生きづらさと親子関係』16ページ/大月書店)
「非行」というメッセージ
私は「(父親が亡くなった後に)嘆き悲しむ母親の姿を見ていたくなくて」と、男性の家を泊まり歩いた子どもを知っています。だれもが足を止めるド派手な格好で追い出された里親家庭の周りをうろついていた子どもや、「だれかに話を聞いて欲しくて」万引きを繰り返した子どもを知っています。
表面的に見れば、彼/彼女らの取った行動はいわゆる「非行」です。しかし、その行動の裏にあるのは、「私のことをちゃんと見て欲しい」「私のことをきちんと愛して欲しい」という切ないまでの思いに他なりません。
しかし、親を殺すところまで追い詰められた子どもやその親子関係について「とくに問題はなかった」と語る人たちは、そんなふうには思いません。
あくまでも問題があったのはその子どもであって、子どもをめぐる環境や関係性に問題があったと思おうとはしないのです。
子どもを操るおとなの仕草
こうしたおとなは、子どものさまざまなメッセージを理解できず、そのサインを無視します。当然、子どもの行動化は進みますが、おとな側はさらに大きな力で子どものメッセージを葬り去ろうと躍起になり、「しつけ」と称して子どもを矯正し、自分たちにとって都合のいい子どもにつくり変えようとします。
そのために取られる方法は、何も殴る蹴る暴力や、食事を与えないネグレクトなど分かりやすい虐待に限りません。
悲しげにうつむいた横顔や、失望を含んだまなざし、小さなため息があれば十分です。
こうしたおとなの、わずかな仕草から子どもは「期待されていること」を読み取り、「自分は何をすべきか」を推測します。そして、子ども自身気づかないうちに、おとなの望むように振る舞い始めます。
おとなに愛され、世話をされなければ生きていけない子どもを意のままに操ることは、おとなが思っている以上にとても簡単なのです。
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2008年08月12日
少年事件と虐待(3)
私がよく知っている大学生にこんな女の子(A子さん)がいます。
A子さんは、大企業に勤める父と教師の母、妹の四人で暮らしていました。母は教育熱心、ボランティア活動などにも精を出す人で、親戚には大学教授など社会的に高い地位にいる人物も多い家系。端から見ると理想の家族で、おそらくA子さんの両親もそう思っていたことでしょう。
ところが15歳のとき、A子さんは「ここにいたら死んでしまう」と、家を出て知人宅へ転がり込みました。
そのときの心境を次のように語っています。
「暴力を振るわれたり、ご飯をもらえないなんてことはなかったけど、ずっと『自分は受け入れられていない』と感じながら生きてきていました。親から温もりとか安心感を受け取ったことがないんです。家にいてもいつも自分をつくって、親に気に入られるよう振る舞っていました。話をするときも親が一方的に、自分の言いたいことを話すだけ。私の言い分を聞こうともしませんでした」
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母に愛されたくて・・・
エリートサラリーマンの父はほとんど家におらず、「評価をもらう対象ではなかった」(A子さん)と言います。
A子さんと妹は、いつもそばにいる母から愛されたくて、愛情を奪い合いました。
その母は、A子さんの振る舞いが気にいらないと不機嫌になったそうです。A子さんが自分の思いを口に出したり、母が望むほどテストの点が取れなかったり、お風呂に入る時間が遅かったりなど、ささいなことが原因でした。
たとえ不機嫌になった理由を口にはしなくても、ドアを強く閉めたり、食器を乱暴に置いたり、自分を無視したりする母の様子から、A子さんは母の本音を読み取ったといいます。
「いつも母に何を求められているのか考えて、先に先に行動していた。母が『するべき』と考えているだろうことを全部やり終え、妹と一緒に廊下からこわごわ母の様子をうかがっていたときのことを今も思い出します。母が口を聞いてくれなくなるのが一番恐かったんです」(A子さん)
ひどいぜんそくとアトピーを発症した妹が“世話を必要とする子”になって母の注目を集めると、A子さんは“親の役に立ついい子”になることで対抗しました。自ら進んで塾に行き、私立中学受験に臨み、家事の手伝いもしたのです。
何かが壊れ始めた
そんなA子さんの中で、何かが壊れ始めたのは中学に入学した頃。
「嫌われたくない」「認められたい」との思いが頭を離れなくなり、自分でさえ自分が何を感じ・考えているのか分からなくなりはじめました。そうして、対人関係に行き詰まり、学校に行けなくなってしまったのです。
拒食症になったのもその頃からです。きっかけは、妹の療養食に付き合う“よい姉”を演じたこと。食事量を極端に減らし、大雨も日も、マラソンと水泳を欠かしませんでした。五二キログラムあった体重は、みるみる三〇キログラム台まで落ちていったと言います。
母は、病院に相談し、病院のアドバイスに従って「子どもを抱きしめる」という不安解消法を試みたりもしました。祖母がわざわざA子さん宅を訪れ、戦時中の飢餓体験を語り、食べることの大切さを教えたりもしました。
「私が心配というより『親としてどうすべきか』が分からなくて困っていたんだと思う。『正しい親をやってきたはずなのになぜこんなことになったのか』と思っていたのでは?でも、マニュアル通りに抱きしめられても安心なんかできない」(A子さん)
そうして家を飛び出し、A子さんは奇跡的にも自分を支えてくれる人たちと出会うことができました。その人たちの援助で、大学にも入り、独り暮らしも始めました。
ところがA子さんの両親は「自分たちの老後が心配。(高額な)老人ホームに入居する資金が必要だから」と、A子さんへの生活費をカットすることを伝えてきました。
今も両親は「何不自由ない生活をさせてやったのにどこが不満だったのか」と憤っているそうです。
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2008年08月22日
少年事件と虐待(4)
「人の顔色を見て、人に合わせて、嫌われないように生きていくのに疲れ、耐えられなかった。すべてを終わりにしたかった」
『東京新聞』(8月8日付け:埼玉版)に載っていた先月19日に父親を殺害した埼玉県川口市の中学生の供述です。
新聞には「『人からどう見られるかが、とても気になる』と自己分析する性格で、『勉強は好きでなかったが、両親によく思われたかった』と小学校時代から塾に通い、中学受験してさいたま市の中高一貫校に進んだ。入学後も友人や両親の目が気になった」とも書かれていました。
自殺も考えたそうですが「家族が周りから自殺した子の親や弟と言われる」と、人の目を気にして思いとどまり、家族全員を殺害することにしたそうです。
そのように結論を出しても何度も決行を思いとどまった中学生が犯行に及んだ理由は、事件当日に保護者会が予定されていたためでした。新聞には「期末試験の成績が分かり、怒られると、自分も両親も嫌な気持ちを持って死ぬことになる」と書かれています。
家族については「今でも『家族のことは好き』と話している」とのことです。
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中学生の供述は理解できない?
他紙よりも、詳しく中学生の供述を掲載した『東京新聞』でしたが、ここでもやはり“心の闇”という言葉が使われていました。
また、新聞各社は埼玉県警幹部や同世代の中学生らの「理解できない」というコメントを掲載していました。
みなさんはどうでしょうか?
中学生の供述は、驚くほど前回、紹介したA子さんと似ています。
もちろん、この供述だけで、中学生とA子さんが同じような生育歴、家族関係を持っていたと語ることはできません。
でも、少なくとも中学生の家庭には「人の顔色を見て、人に合わせて、嫌われないように生きなければならない」と、子どもが受け止めてしまうような雰囲気があり、子どもが汲々としていることに周囲のおとなが気づいていないということは言えると思います。
心理的虐待とは・・・
昨年7月にも書いた通り(「現実から乖離した教育再生会議(7)」)、最近の虐待(不適切な養育)に関する研究には、殴る蹴るなどの“分かりやすい”虐待を受けた子どもよりも、その子どもの心理的ニーズに応えない親に育てられた子どもの方がより深刻なダメージを受けるという結果が出ています。
もっと言えば、子どもに「欠陥品である」「愛されていない」「他者のニーズに合わせなければ価値がない」などの見方を与える養育者の関わりは、すべて心理的虐待にあたるという指摘もあります。(「Psychological Maltreatment of Children」2001,APSAC(American Society on the Abuse of Children))
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2008年08月28日
少年事件と虐待(5)
子どもにとって、親は神に等しい絶対的な存在です。
人間の赤ちゃんは「生理的早産」とも呼ばれるほど、とても未熟な状態で産まれてきます。
たとえば人間以外のほ乳類の赤ちゃんの多くは、産まれた直後から自分の足で立つことができます。
そして、生後1年もたてば、自らの空腹を満たす術も身につけます。
ところが人間の赤ちゃんはそうではありません。産まれた直後に立つなんてもってのほか。食事も排泄も、外界から身を守ることも何一つ、自分一人ではできません。生きていくために不可欠なことのすべてをだれかに頼らなければ1日たりとも生きてはいけないのです。
しかも、今、何をして欲しいのか、何を必要としているのか、自分がどんな状態なのか・・・それらを伝えるための手段は「泣く」ということだけです。
赤ちゃんは、その泣き声から、自らが必要としていることをくみ取り、かなえてくれるだれかに頼らなければ生き延びることはできません。
さらに成長し、立てるようになってからも、自らの力で生きていくための能力を手に入れるまでには、10年以上もの長い年月がかかります。その間、子どもの毎日、人生、未来はすべて親(養育者)に握られています。
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親に愛してもらえないということは死を意味する
だから人間の子どもは、親(養育者)の愛を得ようと必死になります。親に愛してもらえない、親が顔を向けてくれないということは死を意味するからです。
こうした事実を踏まえたとき、「愛を感じられなかった」と語るA子さんのストーリーは重みを増します。
10代半ばで「人の顔色を見て生きることに疲れた。すべてを終わりにしたかった」と、家族殺人を思いついた中学生の想像を絶する痛みも、伝わってきます。
自分を偽ってでも愛されたかった親。何ものにも代え難いほどに大好きな親。そんな親から「逃げ出さなければ死んでしまう」と思ったA子さん。家族全員を殺して「すべてを終わりにしたかった」という中学生。彼女たちの辛さ、切なさはどれほど大きなものだったでしょう。
「親の目線」に立ってしまいがちな虐待
虐待を論じるとき、私たちはしばしば「親の目線」に立ってしまいがちです。
「子どもがどんなふうに感じていたか」より「親がどんなつもりでその行為をしていたか」に注目してしまうのです。
だから「しつけだと思って」子どもを殺してしまったり、暴力をふるうなどの極端な例だけを虐待(不適切な養育)だと思い、A子さんたちのようなケースが当てはまるかもしれないとは、まるで考えません。
端的に表しているのは、少年審判です。
2006年6月に高校1年生(当時)の長男が、「テストの点数が悪かったことがばれたら父親に殺される」と思い、自宅に放火し、義母や弟妹などを結果的に殺害するという事件がありました。世に言う「奈良放火事件」(『奈良放火事件から考える』参照)です。
この少年に対しては、世間も裁判官も同情的でした。少年の同級生の保護者らが呼びかけて嘆願書が集められ、裁判長は「保護処分」の決定をしました。
父親からの暴力が明らかだったため、裁判長は「正当なしつけの限度を超えた虐待というべきもの」と判断したようです。
一方、奈良放火事件のちょうど1年ほど前に「板橋区管理人夫妻殺害事件」は違いました。事件を起こした高校1年生(当時)が、必ずしも殴る蹴るなどの暴力を受けていたわけではなかったため、両親の対応は「虐待に当たらない」と判断されたのです。
この少年に対して裁判長は「それでも親はあなたを愛していた。そのことを分かってほしい」と説教し、懲役12年を言い渡しました(『家族はこわい』参照)。