2008年07月の一覧

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2008年07月01日

絶望と自殺(4)

「自分に価値がある」と思うことができなかった宅間死刑囚の子ども時代は、かなり過酷なものだったようです。

 宅間死刑囚とその兄は、父親から棒でたたきのめされる毎日の中で育ちました。母親には父親の暴力を止める力はなく、血まみれの母親の姿を見ながら大きくなったようです(「加害者に潜む家族内部の暴力」 『世界』2003年3月号)。

 兄は、事件の2年前に自殺しています。宅間死刑囚も、犯行の直前にネクタイで首をつったそうです。父親に「しんどい、メシが食えない」と言ったら「首でもくくれ」と言われたためでした。
 しかし、結局、宅間死刑囚は自らネクタイをほどき、自殺を断念します。

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「被害者たちという道連れ」

 斎藤学は、このエピソードを『アディクションと家族』(第21巻4号 2005年1月)の巻頭言「『医療観察病棟』は宅間守を治療できるか」で紹介しつつ、事件からわずか3年という異例のスピードで執行された宅間死刑囚の(2004年9月)死刑についてこう書いています。

「一人では死にきれない男が、『被害者たちという道連れ』を手に入れてようやく果たした自殺だったような気がする」(338ページ)

愛されなかった子ども時代

 まだ事件の全体像が見えていないため確定的なことは言えませんが、秋葉原通り魔殺人事件の容疑者もまた、きちんと愛された子ども時代を送った人間ではなかったようです。

 4月3日の書き込みで容疑者は両親について次のような書き込みをしています(『東京新聞』6月17号)こう書いています。

「親の話が出ましたのでついでに書いておきますと、もし一人だけ殺していいなら母親を もう一人追加していいなら父親を」

 そんな容疑者と両親の関係がどんなものだったのかを推測できる書き込みもあります(「閾ペディア」。

・考えてみりゃ納得だよな 親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧。
 小学生なら顔以外の要素でモテたんだよね 俺の力じゃないけど(06/04 05:51)
・親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ 俺が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ (06/04 05:52)
・中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた より優秀な弟に全力を注いでた (06/04 05:53)

「殺した者自身」が負う責任

 確かに、人間を殺めた責任は「殺した者自身」が負わなければなりません。
 けれども、「人間を殺めるようなおとなに成長してしまったこと」の責任までをその人に負わせることができるのでしょうか。

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2008年07月14日

絶望と自殺(5)

 ところで、ここのところ「死刑になりたい」ーーそんな動機で、見知らぬ他人を殺める事件が相次いでいます。いわば「他者の力を借りた自殺」です。

 自殺願望を持つ人の増加は統計からも明らかに読み取れます。
 内閣府が5月に発表した「自殺対策に関する意識調査」では、20歳以上の男女の約20%が「本気で自殺を考えたことがある」と答えています。最も多かったのは30代(27.8%)と20代(24.6%)でした。
 また、警察庁の統計(06年)では自殺者は3万2155人。9年連続で3万人を超えています。 

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本人の責任を強調

 しかし、自殺(願望)者に対しての視線は相変わらず厳しいものがあります。
 今回のブログの冒頭で紹介した会社員のように「甘えている」「努力したのか」などと言う人の声がまだまだ大きいのです。

「他者の力を借りての自殺」ともなるとなおさらです。しかもいわゆる“立場”のある人ほど、辛辣です。ワイドショー等では「自己中心的な犯罪」、「罪のない人を殺した理解不能の残虐非道な人物」などのコメントが繰り返されます。
 
 今の日本社会の、様々なひずみを映し出した秋葉原事件の後でさえ、「注目を浴びたかった」「万事、責任転嫁」など、容疑者の責任を強調した心理の専門家の意見も少なくはありませんでした。
 度重なるネットへの書き込みについても「現実から逃げようとしている」などの言葉が目立ちました。

環境にこそ問題がある

 繰り返しになりますが、確かに人を殺した責任は容疑者が負うべきものです。
 けれども、容疑者がそのような人間にしか成長できなかったこと。さらには、だれにも助けを求められず孤独の中でネットの世界に没頭し、世に恨みを持つようになったことも、本当に容疑者の責任なのでしょうか。

 私には、そうは思えません。
 あの生命力あふれた赤ん坊の姿。生き延びるために、どうにか他者を振り向かせようとする赤ん坊のどこに、他者を破壊し、自らをも破滅させる未来を感じられるでしょうか。
 もし、自分を含むだれかを殺すに至ったのだとしたら、その環境の方にこそ問題があったと言うべきでしょう。

「人とつながりたい」という欲求

080714.jpg 人はみな「人とつながりたい」という欲求を持って産まれてきます。ほ乳類の中でも、とくに未熟な状態で産まれてくる人は、たえず自分を気にかけ、寄り添い守ってくれる養育者(母的存在)がいなければ生き延びることはできないからです。
 
 昼寝から覚めたとき、おしめが濡れたとき、おなかが空いたとき・・・赤ん坊は、今できる唯一の能力を駆使して泣き叫び、自らを守ってくれる相手、必要とするものを提供してくれる相手を求めます。
 
 こうした赤ん坊の「他者との関係性を求める叫び」をきちんと受け止め、そのニーズをくみ取り、応じてくれる養育者に出会うことが出来れば、乳幼児の“泣き叫び”は、少しずつ洗練されていきます。
 その子の発達度合いに応じて、“泣き叫び”よりも有用な方法で自らの欲求を表すようになっていきます。
 自己主張や意見表明などと呼ばれるものへと変化するのです。

欲求を無視されると・・・

 不運にも求めに応じてくれる養育者に恵まれ、安心できる環境を持てなかった場合、子どもは自らの欲求を表すことを止めていきます。「求めても他者は応じてくれない」と学習し、自らのニーズを他者に伝え、助けを求めることをあきらめ、人との関係性を築こうとはしなくなるのです。

 乳幼児の研究では、母親から離された当初さかんに泣いていた赤ん坊が、そのうち泣かなくなり、無表情・無反応になっていくという有名な報告(『Hospitalism』Spitz:1945)もあります。
 さらに、その後の報告では、そのまま養育者のケアが得られなかった場合、情緒的発達および身体的発達の生涯を来たし、死に至ることもされるとされています。

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2008年07月24日

絶望と自殺(6)

 秋葉原事件の容疑者の養育環境はどうだったでしょう。
 報道から推測する限り、彼の家庭は今の社会に適応し、そこで成功できるような「良い子」を求めるものだったように見えます。

 おそらく、彼は小さな頃から自らの欲求(「他者との関係を求める叫び」)を無視されたまま、社会の価値観を体現した親の要求に応じるようしつけられ、その期待に応えるべく努力してきた人間だったのでしょう。

 傷ついたときにほっとできたり、つらい目にあったときに逃げ込んだりできるような安全な居場所。「自分は自分のままで価値がある」と思え、助けを求めることができるような他者との関係を彼は持っていたのでしょうか。

 たぶん彼にとって他者とは、絶えず要求を突きつけてくるもの。その要求に応えられなくなれば簡単に切りすてるもの。自らを搾取し、孤独へと追い込むもの・・・そんな対象でしかなかったのではないでしょうか。

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親(おとな)の期待をくみ取る子ども

 格差をつくり、子どもに「社会で役に立つ人間であれ」と要求し、親が子どもに顔を向ける機会を奪う競争社会では、人々は市場原理で振り分けられます。
 市場原理にどっぷり使った親(おとな)は、子どもに市場で価値の高い“商品”になることを自らも気づかないうちに要求します。市場価値の高い“商品”に育てあげることこそ子どものためだと考え、「子どものニーズ(思いや願い)などそっちのけ」のことも少なくありません。

子どもは無意識のうちにそうした親の期待をくみ取り、ときには必要以上に過大に推測し、期待通りの“優良品”であり続けようと頑張ります。

 でも、期待に応え続けられる子どもはそう多くはありません。大多数は、競争に敗れて落伍者になっていきます。万が一、勝ち続けることができたとしても、人とつながることができない寂しい人間になっていきます。

社会への復讐

 いったん市場での競争レースから降りた者に対して今の日本社会は過酷です。
 引きこもりや不登校、非正規雇用など、市場で認められない“不良品”は、地域からも仲間からも分断され、根無し草となって生きのびる人生を強要されます。
 一度“不良品”の烙印を押された人は、人とつながる可能性も奪われ、ネットなど人ではない“何か”に居場所を求めるようになります。

 多くは場合は、「こうなったのは自分のせいだ」「能力のない自分が悪いんだ」と自らのを責め、分に応じたあきらめの生涯を送ります。

 しかし、中には社会の不条理に気づき、自分をそんな人生へと追い込んだ社会への復讐を企てる者も出てきます。

第二、第三の秋葉原事件も

 政府の諮問機関である教育再生懇談会は、「携帯電話依存の小中学生が増加」との報告を受け、「小中学生から携帯電話を取り上げよ」との提言を出しました。それによって犯罪を未然に防げると考えているようです。

 でも、ことはそう簡単にはいかないでしょう。
 携帯依存の増加に加え、小中学生の自殺者数が急増との報告もあります。2004年の警察庁統計によると、2003年に自殺した小中学生は93人(前年は34人)で57.6%も増加。それ以降、小中学生の自殺者数は、毎年73〜95人で推移しているのです。

 胸にぽっかりと空いた空洞を抱え、孤独と絶望の中でなんとか生き延びている子どもたちは確実に増えています。
 その痛みをきちんと受け止め、子どもが発する「他者との関係性を求めるを叫び」にきちんと顔を向け、子どもの願いや思いにきちんと応えられる社会へと転換しない限り、必ず第二、第三の秋葉原事件は起こります。

 つい先日(7月22日)にも、京王線八王子駅(東京都)で無差別事件が起こりました。
 報道によると容疑者は「家族が相談に乗ってくれなかった」「とっさに無差別に人を殺そうと思った」などと供述しているそうです。

責められるべきは社会

 生まれ落ちた瞬間に「いつかは人を殺してやろう」と誓う赤ん坊など絶対にいません。そのままで愛され、思いや願いを受け止められ、きちんと社会に受け入れられた経験を持っていれば、世の中への復讐を思い立つ人間になど成長するはずがないのです。
 
 19世紀の経済学者であるJ・S・ミルは言っています。

「社会が子育てに失敗し、非行者を生み出してしまうとするなら、そのことについて責められるべきは社会自身である」(『自由論』)

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