2008年06月の一覧

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2008年06月05日

絶望と自殺(1)

ギリシャ神話に登場する人物にシーシュポスという人がいます。
 彼は、その犯した罪により神々から、「巨大な岩を山のふもとから頂上まで転がして運ぶ」という罰を与えられます。
 彼が苦労して運び上げた巨石は、あと少しで山頂に届くというところで底まで転がり落ちてしまいます。そのため、彼は再びこの巨石を一から運び上げる作業をしなければなりません。

 永遠に繰り返される作業。先の見えない、終わりのない孤独な労働。・・・それが、シーシュポスに与えられた罰でした。
 このことから「シシュポスの岩」は「(果てしない)徒労」を意味します。

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圧倒的な絶望感

 私がこの神話を知ったのはフランスの作家・カミュの『シーシュポスの神話』を読んだ学生時代でした。
 人間存在の不条理をテーマにしたノーベル文学賞作家であるカミュが描いたものですから、当然なのかもしれませんが、読んだときの圧倒的な絶望感が忘れません。今も思い出すたびに、舌がざらつくような、胸が押さえつけられるような不快感を感じます。

 ところが嫌なことに、ここ数年、この神話を思い出す機会がたくさんあります。
「非正規雇用」、「死刑・自殺願望」、「過労自殺」、「格差」・・・そんなキーワードが新聞紙面を賑わしているからでしょうか。
 それとも、こうした暗いニュースに対し、「頑張った人が報われる社会」「再チャレンジ」「自己責任」「痛みをともなう改革」などの言葉を返す人々がいるからでしょうか。

生まれたから生きていくだけ

 つい最近もありました。
 『東京新聞』の「読者交論」のコーナーで、18歳の学生が自殺について述べた意見への会社員の反論を読んだときです。

 学生は「生きていればいつか良いことがある」「死ぬ気があれば何でもできる」と精神論を唱え、自殺した人を愚かであるかのように論ずる人々を批判しています。
 そして、最近、再会した中学時代の友人(運動部で活躍していた)が、最初に言った言葉が「仕事場までの電車賃がない。頼むから百円貸してくれ」だったことや、自身がクラスメートに制裁を受けたときの体験から「死んでみたくなる」人に共感しています。

 これに対して会社員は「甘えている」「努力したのか」との意見を述べ、「生きることに意味はない。生まれたから生きていくだけ」という主旨の言葉で締めくくっていました。
 まるで「生きていることに意味を見いだせないのは本人の責任だ」と言わんばかりです。

希望がなければ生きていけない

「生まれたから生きていくだけ」
 その意見には私も大枠で賛成です。でも、だからこそ、「生きている意味」を探し出せるような環境が必要だと思います。
 
 人は希望がなければ生きてはいけません。シーシュポスのように、たったひとり、終わりのない苦しみに立ち向かう毎日に耐えられる人間などいないのです。
 人が希望を持つためには、何かを成し遂げる支えになるための人との関わりや、自分の痛みに共感してくれる他者の存在が不可欠だと思います。

 もし、シーシュポスに、共に巨石を運んでくれるパートナーがいたとしたら、無意味な労働の中にも、わずかな喜びを見いだす可能性があったかもしれません。一見、徒労にしか見えない作業でも、パートナーと過ごす時間そのものが楽しみになることもありえたでしょう。

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2008年06月13日

絶望と自殺(2)

  • 表面だけの薄っぺらなつきあい (06/03 10:45)
  • いつまでたっても一人 (06/03 13:29)
  • ただいま、と、誰もいない部屋に向かって言ってみる (06/03 17:53)
  • 待ってる人なんか居ない 俺が死ぬのを待ってる人はたくさんいるけど (06/04 08:34)
  • 俺にとってたった一人の大事な友達でも、相手なとっては100番目のどうでもいい友達なんだろうね その意識のズレは不幸な結末になるだけ (06/04 10:46)
  • 味方は一人もいない (06/04 15:52)
  • どうせ何をしても「努力不足」って言われる (6/05 04:37)
  • 別に俺が必要なんじゃなくて、新しい人がいないからとりあえず(クビは)延期なんだって (06/05 04:53) ※( )内は筆者が加筆
  • 結果がでないのに続ける奴はバカ (06/05 05:38)
  • どうせすぐに裏切られる 嫌われるよりなら他人のままがいい (06/05 18:57)
  • 俺には支えてくれる人なんか居ないんだから (06/05 18:57)
  • 「死ぬ気になればなんでもできるだろ」 死ぬ気にならなくてもなんでもできちゃう人のセリフですね (06/07 19:36)

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 6月8日に東京秋葉原で起きた通り魔殺人事件の容疑者が、犯行前にサイトに書き込んでいた文章です。書き込みサイト自体は閉鎖されてしまっていましたので、「閾ペディア」より抜粋しました。

「絶望と自殺」の一回目を書いた直後、まるでタイミングを計ったかのように、この事件が起きました。

深い孤独と絶望

 書き込みを見ていくと、容疑者の深い孤独と絶望が感じられます。
 派遣労働でいつクビを切られるか分からない不安。恋人もなく、経済的にも行き詰まる中での将来への悲観。その悲しみや辛さを分かち合い、支えてくれる人がだれひとりいない孤独。

 そうした中で、容疑者はだんだんとそんなところに自分を追い込んだ社会への恨みを募らせ、自己破壊的になっていきます。 

悪いのは全部おれ

  • 孤独に楽しく生きれるなんてあり得ない (06/06 03:03)
  • 彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった 希望がある奴にはわかるまい (06/06 03:09)
  • で、また俺は人のせいにしてると言われるのか (06/06 03:10)
  • 悪いのは全部俺 (06/06 03:10)

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2008年06月18日

絶望と自殺(3)

080618.jpg 秋葉原の事件が起きた6月8日は、7年前に大阪教育大学附属池田小事件に乱入した男に、小学生8人が無差別に殺されるという事件が起きた日でした。
 それが単なる偶然だったのかどうか。今の時点では分かりませんが、秋葉原事件の容疑者の書き込みには、

「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」(06/05 11:51)
「ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったりやっぱり人って大事だと思う」(06/05 12:02)
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし難しいね」 (06/05 12:04)
「誰でもよかった」 なんかわかる気がする (06/05 12:05 )

 などと書かれています。
 少なくとも容疑者が、無差別殺人を行う人間に共感を寄せていたことは事実でしょう。自分が殺人者になってしまうのではないかという恐れを抱きながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっていたことも分かります。

 気になるのは「やっぱり人って大事だと思う」という一文です。
 言葉が足りないので、真意のほどが定かではありませんが、自分が殺人者になってしまうことを止めてくれるような人、自分のことを「特別」だと思い、気にかけてくれるような人を求めていたように思います。

===
「だれかとつながりたい」

 人との接触を求める言葉は、書き込みのあちこちに顔を出します。
「彼女が欲しい」というたぐいの文だけでなく、たとえば犯行に使う凶器を買った後、

「店員さん、いい人だった」(06/06 14:39)
人間と話すのって、いいね (06/06 14:42)
タクシーのおっちゃんともお話した(06/06 14:43)

 などと書き、事件当日には、「ほんの数人、こんな俺に長いことつきあってくれた奴らがいる」とも書いています。

「自分はダメなやつだ」「こんな自分を受け入れてくれる人間などいやしない」と否定しながらも、「だれかとつながりたい」という欲求が伝わってきます。

宅間死刑囚との類似点

 ところで、大阪教育大学附属池田小事件で死刑になった宅間守死刑囚も、孤独の果てに絶望し、社会への恨みに押しつぶされ、犯行に及んだ人間でした。

 そんな宅間死刑囚は、小学生を襲った犯行動機について次のように供述しています。

「恵まれた子どもも、自分みたいな将来の展望のないアホに、たった数秒でいつ殺されるか分からないという『不条理さ』を世の中に分からせたかった」(「誰も書けない宅間守の秘密」『新潮45』2003年9月号)

彼もまた、競争社会の中で自分が“負け組”だと思わされ、それまでの人生・・・おそらく親子関係の中で、自分に価値があるという確信を持たせてもらえなかった人間だったのでしょう。

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