一月末、愛知県犬山市に行ってきました。犬山市立楽田小学校の公開授業を参観させていただいたのです。

犬山市は以前にもこのブログで紹介した「子どもの権利条約が生きた町」です。

この2月には、今年度に引き続き来年度の「全国学力テスト」(全国学力・学習状況調査)への不参加も決めました。同市の市長をはじめ、市民の間には「犬山だけが参加しないのはいかがなものか」との声もありますが、このテストの問題性を重視し、不参加としたのです。

===
「子どもらしい」子どもたち

それはさておき、楽田小の話です。
実は、実際に学校の授業風景を見せていただいたのは今回が初めて。たびたび話に聞いていた「学び合い」の学習とはどんなものなのか、ワクワクしながら訪れました。

まず感じたことは、子どもたちが良い意味でとても「子どもらしい」ということ。
見知らぬ来訪者に興味津々。自由時間になると挨拶をしてくれるだけでなく、屈託なく「どこから来たの?」「何してるの?」などなどと話しかけてきます。
形式通りの挨拶というのではなく、本当にお客さんが来たことを喜んでいるという雰囲気です。

低学年になると、さらにパワーアップです。私と一緒にいたカメラマンさんの大きな機材入れを担ごうとしてくれる子、カメラに写りたくて身を乗り出して来る子、勉強を教えようとしてくれる子・・・いろんな子がいました。

私たち見学者が別室で給食をごちそうになっていると、入れ替わり立ち替わり、その様子をのぞきにきては、目が合うと恥ずかしそうに逃げていきます。

「子どもは風の子」

授業が始まると、ものすごい集中力で先生の話を聞き、意見も出し合います。そして長い休み時間になると、みんな一斉に教室を飛び出して行きます。
校庭を駆け回る姿を見て、思わず「子どもは風の子なんだなぁ」と、つぶやいてしまいました。

ゲームや携帯電話で遊んでいる子はひとりも見かけませんでした。学校に持ち込んではいけないルールがあるのかと思って校長先生に尋ねると、

「べつに禁止はしていませんが、持ってくるあまり子はいませんね。必要を感じないのではないでしょうか」

という回答。「禁止にすることなんて考えたこともなかった」というような表情です。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

「学び合い」の授業

どの授業風景もとても印象に残るものでしたが、とくに印象深かったのは小学二年生でやっていた算数のグループ学習(三〜四人)です。

学習障害と思われる友達に一生懸命教えている仲間の姿があったのです。最初から答えを言うのではなく、相手に考える時間を与えながら、根気よく友達が答えにたどり着くのを待っていました。
休み時間になっても、学習障害の子が理解して、答えを出すまで付き合っていたのです。

そして、その学習障害の子が、机から物を落としそうになったとき、ひとりの見学者が落ちないよう手を添えると、同じグループの子どもが「ありがとうございます」と、代わってお礼を言ったのです。

その様子を見ていて「ああ、これが犬山の『学び合い』の授業なんだ」と、つくづく思いました。

===
「学び合い」の仕掛け人は教師

教師は子どもからお呼びがかからなければ、原則として手は出しません。グループの周囲をぐるぐる周りながら、子どもたちの「学び合い」の様子を見守ります。

でも、そうした「学び合い」が成り立つような仕掛けづくりや工夫にはかなりの時間を費やします。
たとえば、暴れん坊の男子の周囲はおとなしい女子で固めます。最初から答えを教えがちな子には、日頃から「何が相手のためになるか」を言い含めておきます。

学習状況だけでなく、一人ひとりの子どもの特徴や家庭の様子、友だち同士の人間関係までをなるべく多くの教師が共有できるよう、職員室での情報交換やざっくばらんな話し合いも欠かしません。

すべての子どもがクラスに溶け込む

見学終了後に聞いたのですが、楽田小には各クラス2〜3人程度、学習障害の子どもがいて、日本語が苦手な外国籍の子も多いそうです。でも、私がそれと気づいたのは、たったひとりだけでした。

「もちろん、テストをすればハンディのある子どもの点数は低くなります。でも、クラスではまったく目立たず、溶け込んでいます。教師との信頼関係の中で、友だちとかかわりながらいろいろな子が一緒に学ぶことで人を大事にすることを学びます。
望ましい人間関係があると子どもは自ら学ぶようになるし、人の話もしっかり聞けるようになります。それが学力にも反映されていくのです。
いじめはほとんどないし、家庭の事情以外での不登校もありません」(校長先生)

競争を無くし、人と共に生きる喜びを実感できるような教育を目指してきた愛知県犬山市。その全体で学力が上がり、子どもたちの共感能力が伸び、ひとりひとりの持つ能力が開花し始めていることはこのブログで以前書いた「子どもの権利条約が生きた町」を参考にしてください。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

実は、人間が持つさまざまな能力を伸ばすには、競争よりも「みんなで伸びる」ことを目指す犬山のような教育の方がはるかに効果的です。

協同教育を研究している中京大学の杉江修治教授(教育心理学)は『全国学力テスト、参加しません。—犬山市教育委員会の選択』(明石書店)で、こう書いています。

「最近の教育改革では、教育に競争原理を導入しようという議論が多いのですが、競争が効果的だという話はそのほとんどが神話(根拠のない空論)に過ぎず、協同が一貫して有効なのだということが実証研究では明らかになっているのです。(略)競争と協同とを比較すると、学習でも作業でも、ほぼ一貫して協同のほうが効果的なのです。競争は勝つ見込みのある一部の人しか意欲づけることはありません。また、自らの成長より人に勝つことのほうが目的になってしまいます」(90頁)

===
なお、実証研究について詳しく知りたい方は、『競争社会をこえて—ノー・コンテストの時代 (叢書・ウニベルシタス)』(アルフィ・コーン著/法政大学出版局)をご一読ください。
この本を読むと、競争がいかに無意味・・・いえ、悪であるのかが分かります。
競争によって、一時的には作業効率が上がったり、特定の能力だけが伸びたりすることはあります。でも、それよりも失うものの方がはるかに大きいことが実感できます。

競争によってダメージを受ける「共感能力」

最もダメージを受けるのは、「人の傷みを自分の傷みとして感じることができる能力」。つまり「共感能力」です。

「共感能力」は、人間が安全に生きるために欠かせない能力です。遺伝子に組み込まれたこの「共感能力」があるからこそ、人間は「他者とつながる」ことができました。そして、この能力によって、他の動物より無力な人間が、厳しい自然環境の中で生き残り、文化や文明を発展させてきました。

しかしだからこそ、今日の日本のような競争社会においては、早いうちから競争原理を子どもに教え込む必要があります。
東京大学大学院の神野直彦教授(財政学)は『教育再生の条件—経済学的考察 (シリーズ・現代経済の課題)』(岩波書店)で次のように書いています。

「自然淘汰は競争原理を抑制することを求める。というのも、同じ『種』同士で競争をすれば、『種』の存続は脅かされてしまうからである。同じ『種』同士では本能的に競争することがないとすると、子どもたちを教育する過程で競争を動機づけなければ、競争原理は機能しない。他者は自己の成功への妨害物として、他者への敵意を子どもたちに植え付けなければならない」(11頁)(続く…

カウンセリングルーム カウンセリングルーム カウンセリングルーム