2008年01月の一覧

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2008年01月10日

愛馬が教えてくれたこと(1)

 早いもので、このブログを始めてからもう一年以上がたちました。多くの方々に支えられ、続けてくることができました。改めてお礼申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
格差社会から貧困社会へ

 旧年中は、もう少し明るい話題を提供したいと思いつつ、なかなかそうもいきませんでした。

 とにかく一昨年末の教育基本法「改正」以来、どんどん子どもの暮らす世界は窮屈になっていきました。保育や福祉の分野にもでも「自由化」という耳障りのいい言葉で、競争原理が入り込み、とても安心して子育てできない環境が広がっています(よっぽどお金があれば別ですが・・・)。

「格差社会」が問題視されたのも今は昔。すでに日本の社会問題は「貧困」です。

 日本は、OECD(経済協力開発機構)諸国の中で、平均所得に満たない人の比率(相対的貧困率)がアメリカに次いで2位。国民健康保険の保険料が払えず、医療にかかれないまま死亡する例も出始めています(『東京新聞』1月4日付)。
 また、OECDの資料から割り出した子どもの貧困率は他の加盟諸国が減少傾向なのに反して増加傾向を示しています(『保育白書』2007年版)。

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残酷な現実

 しかも、すべてを市場原理と経済効率に任せ、人と人との繋がりを断つ残酷な社会をつくってきた張本人(資産家や政治家、財界人など)たちは、生活に困窮し、孤独に陥った人々を「個人の責任」と切り捨てようとしています。
 そして、自分たちの利益を上げるためにつくり出した格差社会を「努力した者が報われる社会」などと呼んで、知らんふりを決め込んでいます。

 「再チャレンジ」という言葉がお好きな政治家もいらっしゃいますが、実際には結果の出ない再チャレンジに疲れたり、そんな気力も持てないまま「自分が悪い」「自分は役立たず」と、あきらめていく子どもやおとなが増えています。

 そんな現実と、それらがつくり出す人々の生きづらさを直視しようとすればするほど、明るい話題から遠ざかってしまいました。

 昨年の年頭には「やり直しのきかない人生などない」とのタイトルでブログを書かせていただきました。が、皮肉にも昨年は「やり直すためのエネルギーや人間関係を奪われて生きざるを得ない」人々が増えたことを実感した年でした。

愛馬の死

「でも、そんな世の中は間違っている!」と、いつも以上にきわめて個人的な出来事から、今回は書かせていただきたいと思います。

 実は1月1日に、17年を共にした愛馬が永眠しました。

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2008年01月16日

愛馬が教えてくれたこと(2)

 こんな個人的な話題をあえて書かせていただこうと思った理由は、ふたつあります。
 ひとつは、私自身が抱える大きな喪失感を乗り越えるために、語らせていただく必要をとても感じているということ。

 そしてもうひとつは、もし、愛馬がいなければカウンセラーという仕事に就くことはなく、当然、このブログも存在しなかっただろうと、その死を通して気づかされたからです。

極めて過酷な馬の人生

image080116.jpg よっぽど競馬で活躍したり、由緒正しき血統の乗馬馬であったりしない限り、馬の人生は極めて過酷です。その美しい容姿や、競馬場を駆け抜ける勇姿からは想像もできないほどです。

 今の日本で、多くの人が馬を目にする機会と言えば、競馬場か競馬に関する宣伝でしょう。
 競馬馬の中には、たくさんのレースで勝ち、芸能人並に人気のある馬もいます。でも、そうやって一握りの馬がもてはやされる反面で、多くの馬が「用済み」として葬られていく事実を多くの人は知りません。たとえ競馬場に問い合わせても、そんな話は絶対にしてくれないでしょう。

 古来より人間の身近にいて農耕や狩りなどの重要なパートナーを努めてきた馬は、国策の転換に翻弄され、人間の都合に振り回されてきた“経済動物”です。
 農業が機械化されればお払い箱になり、戦時中は外来種のような強い馬づくりのために在来馬が駆逐されました。
 
 現在、日本ではほとんどの馬が競走馬(競馬馬)として生産されていますが、生産は過剰です。しかも、体の出来上がらない3・4歳のうちから無理やりレースに参加させられるため、故障する馬も少なくありません。競馬馬の8割以上が胃潰瘍にかかっているという話もあります。
 そして、レースでいい成績の出せない馬、故障した馬は淘汰されていきます。食用になるのです。

天寿をまっとうできる馬はまれ

 乗馬馬や観光牧場の馬などになって人生をやり直せる馬はごくわずかです。

 受け入れ先である乗馬クラブなどが絶対的に少ないということもありますが、レースに勝つために強迫的に追い立てられてきた競馬馬を調教し直すことはかなり難しいことです。
 その馬の気質にもよりますが、早く走るために必要なことだけを教え込まれた馬に、ゆったりと人を乗せることを教えるのはたやすいことではなく、そんな時間とお金をかけて調教し直してくれる人間に出会える幸運な馬は数えるほどしかいません。[参照:競走馬の文化史 優駿になれなかった馬たちへ抜粋]。

 生き残りをかけた狭き門を無事くぐり抜けた馬たちも、安心はできません。怪我をしたり、年をとったりして人を乗せられなくなればすぐに「サヨウナラ」です。酷使されることも多く、たいていの馬は寿命に満たないうちにどこかを患います。

 そして、「最後の家」(肥育家)に送られます。人間のために、文字通り身を粉にして働いてきたというのに、その「最後の家」の環境が劣悪であることも、少なくないといいます。

 幾重にもふるいにかけられる人生を生き延び、天寿をまっとうできる馬は、本当にまれなのです(興味のある方は、ぜひ『競走馬の文化史—優駿になれなかった馬たちへ』/青木 玲著・筑摩書房をご一読ください)。

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2008年01月21日

愛馬が教えてくれたこと(3)

image080121.jpg 私が馬の一生を知ったきっかけは、愛馬が足腰を痛めたためでした。もう15年ほど前になります。それまで全国大会で入賞を果たしていた馬だったため、乗馬クラブからこう勧められたのです。

「競技を続けたいなら、馬を買い換えた方がいい。今、手放せば、高く売れる」
 
 そう言われて頭に浮かんだのは、以前に持っていた馬のことでした。
 その数年前、私は馬を買い換えていました。当時の私は、馬の人生がどんなものかなどまったく知りませんでした。自分が手放した後も、ずっとだれかの自馬(オーナーのいる馬)としてかわいがられて生きていくと思っていました。だから、いつでも会いに行けると信じていたのです。

 ところが、1年とたたないうちに、その馬の行方は分からなくなってしまいました。だれに聞いても、いったいどこへ売られていったのか教えてくれません。
 それが馬をあつかう世界のルールであり、おかげで馬とかかわった人が「きっとどこかで元気に生きているはずだ」と、はかない夢を見続けることができるのだと分かったのは、後になってからでした。

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役に立たなくてごめんなさい

 前の馬のことがあり、ふんぎりのつかないまま時間だけが過ぎていきました。愛馬は、競技に出ると、またすぐに休ませなければいけない状態の繰り返し。競技会での成績も以前ほど振るわなくなってきており、全盛期を過ぎたことは明確でした。

 そんな折、愛馬のあつかいをめぐって乗馬クラブの担当者とトラブルになり、急遽、新しい預け先を探さなければいけなくなりました。
 ・・・とは言え、一生、馬を養い続ける自信はありませんでした。動物愛護団体やら、牧場やらを回り、どうにか一生のんびり暮らせる方法はないかと探しました。
 そうした中で「過酷な馬の人生」のことを知ったのです。

 前回紹介した『競走馬の文化史—優駿になれなかった馬たちへ』(筑摩書房)という本も、このとき知りました。この本の「最後の家」という頁に、肩身狭そうに横たわっている馬の写真があるのですが、その目が「大きくて邪魔でごめんなさい」「役に立たなくてごめんなさい」・・・そう、つぶやいている気がして、心が痛みました。

馬は経済動物だけど・・・

「馬は経済動物なのだから仕方がない」

 そんな声が、どこかから聞こえてきそうです。
 私も否定はしません。人間のために働いてもらったり、命の糧として食したりすることを間違っているなどと言うつもりは毛頭ありません。

 多くの人を競馬場に呼び込み、早い馬をつくるために過剰生産し、ほんのわずかなタイムを競わせる。人間の勝手で競走馬としてしか生きていけないよう早くから調教し、体も出来上がらないうちから無理に走らせる。そして、人間の期待に応えられなければ、ほとんどの馬が生きる道を閉ざされてしまうというシステムに疑問を感じているだけです。

 馬がどんなに働いても、その利益が無冠の競走馬や、活躍できなかった乗馬馬たちに回ることはありません。欧米には多い養老馬牧場も、日本には数える程しかありません。

 さらに、そんな事実を覆い隠し、イメージだけを売り込むことも、どうかと思います。
 せめて人間の都合で生産され、競争させられ、酷使され、そして殺されていく馬の一生を「美しいイメージ」でカモフラージュするのは止めるべきではないでしょうか。
 「癒されるから」と競馬場や乗馬クラブを訪れる馬好きの人たちに、馬の一生をきちんと知らせた上で、「それでももっと能力の高い馬がいいですか?」と、問いかけてみることも必要なのではないでしょうか。

「これからの馬の運命を決めていくのは、結局、私たち人間の欲望であり、夢なのだから」(『競走馬の文化史—優駿になれなかった馬たちへ』162ページ)

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2008年01月28日

愛馬が教えてくれたこと(4)

 今までに何度か、このブログを読んでくださった方はもうお気づきかもしれません。
 馬の世界は、今の日本社会にとてもよく似ていませんか?

 効率と競争によって、選別し、経済的な利益を生まない者は「役立たず」として淘汰する。そして、それを「本人の問題」としてあきらめさせ、肩身の狭い人生を余儀なくさせていく・・・。
 
 前回のブログ(「子どもの『うつ』と『あきらめ』」)でも書いた、中学3年生と小学6年生を対象に行われた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)も、選別のための装置に過ぎません。

 「自由」「規制緩和」「改革」などの響きの良い言葉でごまかしながら、不安定雇用、福祉の縮小、経済格差などの現実がつくられ、社会の価値に合わない者、競争の土俵に乗れない者は、はじかれるというシステムが出来上がっています。
 こうした社会は、私たちから人間関係を奪い、情緒を剥奪し、子育てや教育をうまくできないようにし、子を支配し、依存せざるを得ない親を増やし、孤独で寂しい人々を生んでいます。

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 「効率優先の競争社会では、人々の心の中に、厳しい自己監視装置が内蔵され、この自己査定によって、人々は自らを上級、中級、下級品ないし市場に出せない企画はずれと考えるようになっている。このような社会の中では、他者と親密であることの価値よりも、自らの市場価値の方が優先される」(『家族の闇をさぐる—現代の親子関係』/斎藤学著・小学館 50ページ)からです。
 
国際競争時代だから仕方がない?

「国際競争時代なんだから仕方がない」

 今度は、そんな声が聞こえてきそうです。
 でも、貧困層が膨らむ一方で大企業が空前の利益を上げ、富裕層の資産は拡大しています。「国際競争に備える」を錦の御旗に、利益を独り占めにしている人々が、確かに存在しているのです。

 企業が儲けをどれだけ労働者に配分したのかを示す労働分配率は2000年代に入ってから急下降。利益は、生活に困窮する人々を救うためではなく、株主や企業内部に溜め込まれています(『東京新聞』1月8日)。

 1960年代には企業と個人がほぼ半々で支えていた税収も、90年代以降は個人負担が増えていきました。2002年には企業は約20%、個人が約45%となるなど、開きが大きくなっています(『週刊金曜日』2005年9月9日)。それにもかかわらず、今度は消費税率アップの話が出ています。

働かざる者、食うべからず?

 「働かざる者、食うべからず」という諺があります。
 そもそもこの諺の是非については、大いに異論があります。命ある者は、その存在そのものにかけがえのない尊厳があるからです。
が、ここでは100歩譲って言わせてもらいます。

 産まれた直後からから競わせ、おとな(人間)の思い通りにならなければ生きていけないようにつくりあげ、生きるエネルギーを奪って働けない状況に追い込んでいるのは、いったいだれなのでしょう?
 朝に晩に体を壊すほど懸命に働いている人よりも、右から左へちょっと資産を動かすだけで莫大な利益を手にする人々の方が働き者だと言えますか?

 経済を最優先させるシステムの残酷さとごまかし。ーーそれを最初に、実感を持って教えてくれたのが、元競走馬だった愛馬でした。
 その存在がなければ、きっと私が今のような視点を持って相談や執筆に携わることはなかったことでしょう。

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