2007年11月の一覧

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2007年11月05日

『家族』はこわい(2)

「子どものため」に奔走する親

image071105.jpg 「子どもには親しかいないのだから」と、自分を犠牲にして「世間様に後ろ指をさされない人間にしてあげる」ためにがんばる。
 そんな親の根底にあるのは「この子は私のもの」という、子どもへの所有意識です。

 こうした親は「子どものため」と言いながら、自分の人生を豊かにするために子どもの人生を支配し、コントロールします。

 「子どもの幸せ」のために奔走する親ほど、こわいものはありません。

 結婚しない子どもの身を案じて「親の見合い」会場に集まる親たち。
 その親たちは子どもが成人してもなお、子どもの人生を支配することを止めようとしません。あろうことか配偶者選択と子孫の誕生という子どもの未来までも手中に収めようというのです。

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「愛情」という名の支配

 私たちの社会では、こうした親の支配を「愛情」という名で呼びます。

 「愛情」あふれた親は、子どもを社会で通用する“作品”に仕上げようと、その人生に口を出し、思い通りに装飾し、好きなように操作します。
 そうしてさんざん子どもの人生をかき回し、子どもから生きる自信も気力も、希望も夢も奪ったあげく、「感謝しろ」と迫ります。

 身体的な暴力やネグレクトには敏感な人たちも、こうした残酷な「愛情」には無頓着です。
 私たちの社会には、「子どもは親に従うべき」との常識がまかり通り、どんな親に対しても「親孝行するのは当たり前」という意識が浸透しているのです。

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2007年11月12日

『家族』はこわい(3)

 ちょうど1年ほど前、そんな私たちが暮らす社会の常識や通念をよく表している出来事がありました。
 東京板橋区で寮管理人の両親を殺害し、ガス爆発事件(2005年6月)を起こした少年への判決です。

恐ろしい父の存在
 
 報道等によると、少年の父は寮の仕事を少年にさせ、自分はバイクでツーリングに行くなどしていました。

 一生懸命に寮の仕事をこなしても、父が少年をほめることはありませんでした。それどころか「まだここが汚れている」などとあら捜しばかり。

 不満を募らせた少年が「なぜ掃除ばかりしなきゃいけないんだ」と直談判すると、「子どもが親の手伝いをするのは当たり前だ」と、少年の心のよりどころだったゲーム機を壊したと言います。

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 少年が掃除の手を休めていると、携帯電話やパソコンを壊されたこともありました。
 事件前日、勉強のことで口論になったとき、父は「お前とは頭の出来が違う」と少年の頭を激しく揺さぶりました。

 おそらく少年にとって、父は自分の毎日を支配する恐ろしい存在だったに違いありません。

 少年を担当した弁護士さんからは、「逮捕直後、面会に行くと、少年はいつも面会時間の終わりを告げるために近づいてくる職員の足音に耳をすませ、過敏に反応していました。きっと、いつも父親の足音や気配におびえながら暮らしていたんでしょう」という話も聞きました。

“不幸な母”という十字架

 勉強や習い事をさせることには熱心だった母は、お金を工面して少年を海外にホームスティもさせました。

 でも、少年の気持ちを理解しようという気持ちは希薄だったようです。生活に疲れ、いつも「死にたい」とつぶやいていた母は、少年の食事の支度もほとんどしなかったと言います。 

 そんな“不幸な母”を横目に、父親の暴力にさらされて生きざるを得なかった少年の孤独感や絶望感、罪悪感はどれほどに深かったことでしょう。

 子どもに安心感を与えられない“不幸な母”は、「母を救ってあげられない」という負い目を子どもに与え、将来にまで影響を与えかねない大きな十字架を背負わせてしまうことも少なくありません。

 少年は公判の席で「お母さんは『死にたい』と言っていたし、これ以上へんになるなら、楽にしてあげようと思って殺した」と述べています。

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2007年11月21日

『家族』はこわい(4)

 この少年に対し、事件を担当した栃木力裁判長は懲役14年を言い渡しました。

 おそらく裁判長は、辛い体験、親への愛憎半ばする思い、そうした少年が語る“事実”、を「改悛の情が見受けられない」と判断したのでしょう。

 判決要旨を読むと、この裁判長は、父がゲーム機を壊したことは「勉学がおろそかになることを心配していた」ためと考え、奴隷のようにこき使われ、放ったらかされていた毎日は「不適切な養育とは言えず、両親に募らせていた不満や恨みは極めて身勝手なもの」と思っていたことがよく分かります。

 こうした判決や判決要旨もさることながら、私が怒りを覚えたのは、判決朗読後に裁判長が少年にかけた次のような言葉です。

「ご両親なりに愛情を持って育てていたと思います。あなたには、そのことに気づいて欲しいと思います」(『朝日新聞』2006年12月2日)

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「両親の愛情」という幻想

 父親が少年にしたことは、紛れも無く人間の尊厳を叩き潰す行為です。もし、親子ではない、おとな同士の関係のなかで、同様のことをしていたら、当然罰せられていたでしょう。

 一方、母親はどうでしょう。父親の暴力に対して無力で、生きていくだけで精一杯。少年の気持ちを考える余裕もなかった母親は、少年に愛情ある接し方が出来ていたと言えるでしょうか。

 少年の両親を責めるつもりはありません。おそらく両親も、きちんとした愛情を親から受け取っていない、かわいそうな人たちだったのだとも思います。そういう意味では、両親が、少年にこうした接し方しかできなかったのは、当たり前とも言えます。

 しかし、だからと言って、この両親の養育態度を「愛情を持って育てていた」などど、言っていいはずがありません。

 もし、そんなことが許されてしまえば親が子どもに対して行なう、どんな残酷な行為も「愛情」という言葉をかぶせることで「子どもがありがたく受けるべきこと」へとすり返られてしまいます。

 行為者が、ただ「親だ」というだけで、子どもがされた残酷な“事実”が、「両親の愛情」という幻想に置き換えられてしまうのです。

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2007年11月28日

『家族』はこわい(5)(1/2)

 しかし、こうした「置き換え」に疑問を持たない、この裁判長のような人々にはそんな疑問は浮かびません。
 問題行動(症状)は、子どものノンバーバルなメッセージなのだととらえ、向き合おうなどという考えは思いもよらないことなのです。

 この裁判長のような人々にとって、子どもは「未熟で保護の対象となる者」でしかないのです。そこには問題行動の裏にある意味を考え、「子どもの思いや願いをきちんと受け止めよう」、「子どもが今、何を感じているのかきちんと聴こう」などという発想は皆無です。

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間違っているのはいつも子ども

 未熟な子どもに対して、成熟したおとな(親)がすることに「悪いこと」などあるはずがないのです。
 おとながすることはいつでも正しいのですから、問題が起きるとしたら間違っているのは子どもの方に決まっています。
 もし、おとなのすることがどこかへんだと感じたとしても、未熟な子どもに反論することなど許されません。ときには疑問を持つことさえ、罪とされます。

 私たちの社会では、「子どもは力で押さえつけ、疑問を持たずに社会にうまく適応できるよう『しつけ』てやることこそが『愛情』なのですから。

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