2007年02月の一覧

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2007年02月02日

本音を言えない子どもたち(2/5)

教室から追放されたいじめっ子はどうなる?

 教育再生会議の提言や報告はまったく了解不可能です。その内容は1995年に文部科学省「いじめ対策緊急会議」が出した「当面の方策」や2000年の教育改革国民会議の答申を厳罰化させただけ。「力で押さえつける非行対策」の枠組みを出ていません。

 相変わらず「なぜいじめが起こるのか」、「どうしたらいじめられている子が周囲のおとなに真意を打ち明けることができるのか」という視点はまったく入っていないのです。

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 もちろん、ひどいいじめの場合には、緊急の対応が必要です。一時的にいじめている子どもといじめられている子どもを引き離すこともあり得るでしょう。
 しかし、それが根本的な解決になるでしょうか。見せしめ的な教室からの追放や懲罰的な奉仕活動によって、子どもに規範意識を植え付け、更正させることができると本当に信じているのでしょうか。

 懲罰で教え込まれなくても、いじめが「いけないこと」であることくらい、いじめっ子も重々承知です。それでも今、その子どもが生き延びるためには、だれかをいじめることが必要なのです。
 虐待する親が、DVの夫が、自分の抱えてきた過去や苦しさ、今、直面している辛さから、その行為を止められないのと同じです。いじめっ子は、いじめという今できる方法を使って、苦しさや辛さ、悲しさを「分かって欲しい」と懸命に訴えているのです。

 教室から追放されたいじめっ子の面倒は、いったいだれが見るのでしょうか。いじめっ子の発したSOSはきちんと受け止められるのでしょうか。その子が本当に人生をやり直せるような人間関係を紡ぐためのサポートは用意されているでしょうか。

 私にはそうは思えません。
「子どもの安全」を理由に子どもたちの個人情報が警察へと流れ、警察介入の拡大と幼児からの少年院送致も可能にする少年法「改正」案が継続審議され、アメリカから輸入されたゼロ・トレランス(寛容度ゼロの指導)が声高に叫ばれている現実を考えれば、教室から追放された子どもがどのような扱いを受けるのかは想像に難くないからです。(続く…)

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2007年02月05日

本音を言えない子どもたち(3/5)

image070205.jpg教師自身が自分の身を守ることで精一杯

 一方で「子どもの声を聞こう」という、今までにない姿勢を打ちだした文部科学省には一定の評価はできます。しかし、本当にそんなことができるのかという疑問は払拭できません。
 アンケートなどを回しても、子どもはそこに本心など書いてはくれません。教師や親からの聞き取りもほとんど有効性はないでしょう。子どもはおとなの真意を読み取り、その期待に応えようと演技をする存在だからです。

 子どもに本音を語ってもらいたいなら、毎日の生活の中で「このおとなは信頼できる」、「このおとななら何を言っても自分を責めたりしない」と感じ、自由に振る舞える関係性をつくっておく必要があります。
 そのためにはまず、子どもの身近にいるおとなたち(教員や親)が、ゆったりと子どもに向き合えるような環境がなければいけません。

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 しかし、今の家庭や学校にそのような余裕があるでしょうか。
 少なくとも東京都のように、毎年1500人もの教員が辞め、「個性ある学校」づくりという名の数値目標達成に校長が青息吐息になり、副校長が事務作業に追われている状況では難しいでしょう(『週刊金曜日』2007年1月19日号)。

 東京都では、単学級が増え、教師が評価され、教師同士が競争させられているなかで、どの教師も孤立。教師がチームワークを取って子どもの問題に向き合うことなど、とてもとてもできなくなっています。
 以前は、同じ学年担当や先輩に相談して乗り切った子どもや保護者とのトラブルも、みんなひとりで抱え込まなければいけない状況が生まれているのです。

 そのうえ、週指導計画案など書類作成などの事務仕事が増え、職員室にいても各々がパソコンに向かって黙々と仕事に追われるようになってきています。新人教師が自殺するのも当たり前でしょう。
 何しろ、仕事に失望して辞めていくベテラン教師を補填するため、大量に採用している新人教師の新任研修は年間300時間を超えています。研修をこなすだけでも大変なのに、職場で相談できる人もいないのでは、耐えられるはずがありません。

 職員会議が無くなり、教師は管理職が決めたことをやらされるだけになってしまったことも、教師を疲弊させている一因です。校長権限が強化され、3年で異動させられるようになってしまったため、管理職にもの申すことさえできず、教師が創造的な学級運営を行ったり、授業や子どもとの関わりについて自由に考えたりすることもできなくなってしまったのです。

 なかには「不適格教員」のレッテルを貼られながらも、理想の教育を行おうと頑張っている教師もいます。しかし、そのために費やすエネルギーは計り知れないほど大きくなります。
 このような環境では、教師自身が自分の身を守ることに精一杯で子どものことなどかまってはいられないでしょう。

 「教育の『原点』を取り戻すために」で書きましたが、2005年度に病気休職をした全国の公立小中高教職員は10年間で約3倍の7000人強。そのうち、うつ病などの精神疾患で休職したのは前年度比619人増の4178人で過去最多ということも改めて強調しておきましょう。(続く…)

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2007年02月09日

本音を言えない子どもたち(4/5)

子どもの世界にも浸透する競争・格差社会

 親についても同様です。最近、都内の公立学校教師に聞いた話によると「いわゆる『底辺校』や『困難校』と呼ばれる学校の親は、食べていくことに必至で子どものことどころではない」そうです。
 1995年頃から増え続けている雇用者全体に占める非正規雇用数は、ここ20年で2倍の32.6%(『ニッセイ基礎研 REPORT』2006.5)。家計の貯蓄率も過去最悪の3.1%です(『東京新聞』2007年1月13日)。大企業が過去最高益を更新している裏側で、今日の生活にも困る層が確実に生まれています。

 他方、裕福でも子どもが親に安心して本音を語れる家庭はそんなに多くはありません。裕福な親の多くは、子どもへの期待が大きく教育熱心です。そのため、幼い頃から子どもたちを塾や習い事へと駆り立て、子どもが何を感じているかには無頓着であったりします。

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 文部科学省によると、この10年で新設された私立小学校は全国で27校。学習塾は小学受験に照準を合わせた生徒の囲い込みに精を出しています(『朝日新聞』2006年10月15日)。
 子どもの世界にも、競争・格差社会の影響は確実に及んでいるのです。

 こうした話を聞く度、私は有名な心理学者であり、「心の教育」の提唱者である河合隼雄文化庁長官のお膝元・京都市を取材したときに出会った子どもの話を思い出します。2005年のことです。

 その子は、中学校のクラスの様子を「昔の階層社会のよう」と、こう表現したのです。

「成績を見ると、その子どもの家の経済状態が分かった。成績が一番上の特別進学校を目指す子は、年間100万円もの塾代を払える家の子。最下位の落ちこぼれで無気力な子は貧乏な家の子。そのどっちでもない家の子が真ん中の成績だった」

 その子によると、塾では「教師が喜ぶ自己評価表の書き方」や「内申書を上げるための態度」も教えてくれるとか。
「たとえば、道徳で戦争について学んだら『二度と戦争を起こしてはいけないと思いました』と書けば二重丸だとか、行事があるときには積極的に手を挙げて委員に立候補すれば教師の心証が良くなるとか」などだそうです。

 授業で自己評価表を書かされる度に、その子は「正直に書いて成績が落ちるのを選ぶのと、ウソをついて受験のための点数を取るのとどっちが正しいことなんだろう」と悩み、学校に行くとお腹が痛くなってしまったとも語っていました。

 当時すでに京都市では、教育基本法「改正」を先取りした学校選択制、教育特区、学力テストなどによる学校の序列化、道徳教育(心の教育)という規範意識の徹底などが始まっていました。東京都と並ぶ勢いの教育「改革」が進められていたのです。
 独自カリキュラムなどを持つ少数の特別進学校をつくり、子どもたちを競争させる一方で、いわゆる“落ちこぼれ”の子どもたちの受け皿としてスクールカウンセラーの増強や不登校の子どものための学校づくりなどが盛んでした。

 進学校のある学区は土地やマンションの価格も上昇。不動産広告でも「○○学校学区内」と書かれていると、値段が違っていました。富裕層のなかには、別宅を買うなどして子どもを進学校のある学区に通わせたりもしている親もいました。

 さまざまな問題を引き起こしたことから約50年間行われていなかった全国一せい学力テトが始まれば、東京都や京都市のような状況は、じわじわと全国へと広まっていくでしょう。全国規模で「昔の階層社会のよう」な学級や学校、地域が出現しても驚くことではありません。

 そのような環境で、果たして親や教師は「子どもの声を聞く」ことができるのでしょうか?

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2007年02月15日

本音を言えない子どもたち(5/5)

子どもが安心して本音を語ることができる環境を

image070215.jpg それでなくても子どもが本音を語ることは容易ではありません。そのことを教えてくれたのは、以前、このブログでご紹介した「子どもの声を国連に届ける会」のHさんです。
 いじめによって4年間を不登校で過ごしたHさんは、2004年に行われた国連・子どもの権利委員会の日本政府報告書審査で、自身の体験を次のように語っていました。

「私自身、小学校の時にいじめをうけ、そのことを誰にも相談出来ませんでした。学校のなかでは他人に自分の弱みを見せては生きていけないからです。弱さを隠し、先生にも親にも相談できないまま、とうとう学校に行くことが出来なくなりました。12歳から16歳までの4年間、不登校でした」

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 でも、Hさんは、けしておとなを信頼していないわけではありませんでした。
 プレゼンテーションの後、子どもの権利委員会委員長が「日本の子どもは親に安心して話ができるような関係にないのか」と質問すると、「私は親との関係は良かった」と前置きしたうえで、こんなふうに発言しました。

「たとえ親との関係は良くても、私は学校でいじめられていることを親には言えなかった。・・・それは親に心配をかけたくなかったからです。そういう子どもはいっぱいいます」

 マイクを握りしめ、肩をふるわせながら、とぎれとぎれに語られたHさんの言葉は、子どもの権利委員会委員をはじめ、その場に居合わせたおとなの胸を大きく揺さぶりました。
 いつもは「しっかり者」のHさんであっただけに、こらえようとしてもあふれてしまう涙にむせびながら嗚咽する姿は印象的で、今も私の目に焼き付いています。

 そんなHさんの姿が、「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」、「お母さんお父さんこんなだめ息子でごめん 今までありがとう」と書き残して自殺した筑前町の男子生徒と重なります。

 Hさんや男子生徒の後ろには、「大好きな親に心配をかけるような子どもであってはいけない」、「いじめられているなんて、なんて情けないんだろう」と自らを責めながらも、「だれかにこの辛さを気づいて欲しい」「弱い自分を受け止めて欲しい」と、願って一日一日をどうにか生き延びている大勢の子どもたちの姿が見えます。

 12年前にやはりいじめの存在を訴える遺書を残して自殺した愛知県西尾市の大河内清輝君の父親の元には「いじめがテレビで取り上げられると、親がいじめは恥だと言う。今いじめられているととても言えない」との手紙が寄せられているそうです(『東京新聞』2006年10月15日)。
「強くなければ生きていけない」という暗黙のメッセージを送り続ける社会で生きているのですから、当たり前でしょう。

 今、私たちおとながすべきことは、いじめっ子に懲罰を与え、いじめられている子どもがいないかを監視することでしょうか? 教育に関連する法律を変え、教師を締め上げることでしょうか?

 いいえ、どうではないでしょう。
いじめっ子も、いじめられっ子も、安心して自分の辛さや苦しさ、そして弱さを語ることができるよう、身近なおとなが子どもとゆったりと向き合える環境を整えることこそ、急がれるべきです。
(おわり)

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2007年02月19日

家族のかたち(1/6)

image070219.jpg 「フィリピン ベッドタイム ストーリーズ」という芝居を観ました。フィリピンの演劇人と交流を重ねてきた日本の劇団・燐光群が両国スタッフ共同で創り上げた作品です。
 2004年から続いてきた「フィリピン ベッドタイム ストーリーズ」シリーズの第三弾にあたるもので、5つのショート・ストーリーから構成されていました。

 日本語・タガログ語・英語が混在したセリフ(舞台の両サイドに字幕モニターが用意されていました)と、ベッドルームから見えるフィリピンと日本における現代社会の問題を浮き彫りにしているところが特徴です。

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 ベッドルームを舞台としているだけに、5つのストーリーとも性的な色彩の濃いものになっていました。
 例えば、

 1)売春や社会階級をテーマにした「ドゥルセの胸に1000の詩を」
 2)既婚の女性実業家と部下の不倫を扱った「離れられない」
 3)妻子ある男性との恋いに破れ、男性に裏切られたショックから胎児の血をすする吸血鬼と化してしまう女性の悲劇「アスワン〜フィリピン吸血鬼の誕生〜」

 などです。

 いずれのショート・ストーリーも社会の影にうごめく男女の性の世界を表現しているようでいて、「公に認知された性的関係を持つ男女」(家族)の抱える矛盾が浮かび上がって見える。そんな興味深いストーリーばかりでした。

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2007年02月23日

家族のかたち(2/6)

image070223.jpg無邪気な残酷さ

 なかでも印象的だったのは「代理母ビジネス」というショート・ストーリーでした。

 主人公は依頼者の男性とセックスし、男性の妻に替わって出産するという出産代行業を営むフィリピン女性・ララ。
 ララは「貧困から脱するためのビジネス」と自分に言い聞かせながらも、女性としての尊厳を踏みにじられ、母としての人生を手放すことに苦悩します。大金を手にした満足にひたりながらも、「愛する人と結ばれ、子どもを育てたい」と心を引き裂かれるような苦しみを味わいます。

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 そんなララの葛藤をよそに、どこかの大臣よろしくララを「産む機械」のように利用する男性たち。そこには暴力的な男性もいれば、優しい男性もいます。しかし、いずれにせよ彼らは子どもを受け取るとさっさと去っていきます。
 そして、ララの子どもを嬉々として我が胸に抱く妻たち。

 ララのもとを訪れる依頼者夫婦の無邪気な残酷さ。
 それは私に、満杯の乳児院や児童養護施設には目を向けることなく、「血を分けた子ども」に固執する日本社会を連想させました。少子化対策を叫びながら、夫婦別姓や事実婚を否定し、「家族のかたち」にこだわる日本の政治家や識者を思い出させました。

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2007年02月26日

家族のかたち(3/6)

image070226.jpg家族とは何か

 そんな重いショート・ストーリーが続く中、漫画家の内田春菊さんが書き下ろしたラストの作品「フィリピンパプで幸せを」に、ホッとしました。
 ケタ外れの金持ちで性同一性障害のフィリピン人女性(元男性)と日本人男性のラブ・コメディです。

 男性は、初めて行ったフィリピン・パフで知り合った女性と一夜を共にします。ところが、朝目が覚めてビックリ。女性の自宅はとんでもない大邸宅で、男性は寛大な女性の両親と妹たちからものすごい歓待を受けます。話はトントン拍子に進み、女性とその家族から結婚を迫られます。

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 突然の出来事に最初は逃げ腰の男性。しかし、いくつものドタバタ劇の末、二人は結ばれ、「めでたくハッピーエンド」・・・という、かなり笑える作品でした。

 きっと「フィリピンパフで幸せを」は、「家族のかたち」にこだわる人たちには、とうてい理解できない話でしょう。
 でも、5つのショート・ストーリーを見終わったとき、「幸せそうだなぁ」と思えたのはこの話に登場する家族だけでした。
「家族とは何なのか」と、改めて考えさせられた作品でした。

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