2006年11月の一覧

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2006年11月01日

子どもが危ない(6/6)

image061101.jpg 子どもは、おとなと違って白昼夢を見ます。たとえばスーパーマンに変身し「父に殴られる母」を守ったり、守護神をつくって「怒ってばかりいる母」から自分を守るなど、自分だけの安全な場所で空想にひたることで現実の恐怖を乗り越え、辛い出来事を慰めたりするのです。

 そうやって「だれにも侵されない自分の世界」を積み重ね、自分らしい価値観をつくることは、やがて自分の足で立ち、世の中に流されずに生きる土台をつくります。

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 いつもおとなに見られていると、社会の価値を体現した“おとなの目”を過度に取り込んでしまうこともあります。心理学的に表現すれば、「超自我やインナーマザーが肥大化する」と言ってもいいかもしれません。
 そうなると、いつでもおとな(社会)の期待を推測し、その期待に応えようと必要以上に頑張ってしまうことになります。「もっと頑張らねば」「こんな自分ではいけない」と、自分を責め、期待に応えられない自分に罪悪感を持って苦しんだりします。自分らしい価値観が育っていないので、今の自分を「ありのままでいいんだ」と認め、受け入れることなど、とうていできません。
 しかも「他人は信用できない」と教えられていますから、だれかに助けを求める道も閉ざされます。ずっと守られるばかりだと自分で何かをやり遂げた自信も育たないため、とても外界へと出ていく勇気など生まれようもありません。長じては、いつまでも親に依存する人間になってしまうこともあるでしょう。

 本当に子どもの身を案じるなら、子どもが生まれながらに持っている「自分を守る力」を十分に引き出してあげることこそが重要なのです。
 それには「自分はかけがえのない存在なのだ」という自己肯定感をしっかりと持たせてあげることです。そのためには、継続的で安心できるおとなとの関係性(安全基地)が不可欠になります。
 子どもは、いつも自分を気にかけ、自分の気持ちに寄り添い、自分の欲求に適切に応えてくれるおとな(多くの場合は両親)との関係性のなかで「自分は愛されるに価する存在だ」と感じ、「世の中は自分を受け入れてくれている」という信頼感を育て、心身を発達させます。つまり、身近にいるおとなとの人間関係によって人生を生き抜く力を獲得していくのです。
 実際、「周囲の人からのサポート感が高い子どもほど、危機回避能力が高い」との調査結果もあります(大阪教育大学学校危機メンタルサポートセンターの藤田大輔教授が05年に実施した「健康と安全に関する意識調査」)。

 しかし、今の日本でこのような関係性を保障できる場がどのくらいあるでしょうか。先ほど述べた通り、「家の中」は「家の外」よりもずっと危険な状態です。
「生後19日の2男に暴行、重体 18歳の母親逮捕−−水戸 /茨城」(毎日新聞 9月29日)、「同居男を殺人容疑で再逮捕=暴行認めるも殺意否認−2女児遺棄事件で北海道警」(時事通信 9月30日)、「4歳養女殴打、中国人の女逮捕=日常的に虐待か−警視庁」(時事通信 10月2日)と、3日と空けずに虐待に関するニュースが飛び込んできます。

 監視が強まれば、人とのつながりはますます薄れ、孤独な人が増えていきます。自己決定と自己責任の世の中になれば、子育ての責任は親に重くのしかかります。格差社会が定着すれば、とても子どもの欲求に応えてあげる余裕のない層も生まれます。
 今の日本のような社会であれば、虐待が増えるのは当たり前なのです。

 そもそも監視を必要とするような新自由主義社会ーー競争と成果(利益)が重視され、情緒的なものが排除される社会ーーは、子育てになじみません。子育てとは、見返りを期待することなく、自らのエネルギーを子どもに注ぎ込む行為です。その無償の行為が、私たちにはかりしれないほどの情緒的な豊かさをもたらしてくれるのです。
 ところが新自由主義社会にあっては、こうした情緒的な豊かさは「不用なもの」とされています。もっと言えば「金儲けの邪魔になるもの」とされてしまうのです。

 ほんとうに子どもの安全を憂えるなら、莫大な予算は新自由主義的な社会の在り方を改め、だれもが安心して子育てできる社会をつくるために使われるべきです。人と人とのつながりを分断し、企業が入り込む隙を与えるのではなく、関係性を構築できる環境を整えるべきです。

 子どもの安全を脅かしているのは見知らぬ他人などではありません。サイレント・マジョリティーとなって新自由主義社会に荷担し、人とのつながりを忘れ、実態のない不安に踊らされている、私たち自身なのです。(終わり)

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2006年11月10日

いじめ自殺 1

image061110.jpg「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」

 そんな言葉を残して福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒(13歳)が自殺したのは先月11日。
 以来、北海道滝川市や岐阜県瑞浪市などでも、いじめを物語る遺書を残して小中学生が自殺していたことが分かり、子どもたちのいじめ自殺が大きく取り上げられています。

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 今月6日には、いじめを苦にした自殺を予告する手紙が伊吹文明文部科学大臣に届きました。伊吹文科相は、手紙の差出人に対し

「命はひとつしかないものだし、自分だけのものではない。君が生まれた時はお父さん、お母さんが君の命を腕の中に抱きとってくれたわけだから、誰かに必ず気持ちを正確に伝えてください。世の中は君を放っているわけじゃないことを理解してほしい」

 と呼びかけると同時に、

「思い当たる人たちがそれなりの対応を取れば命が救われる可能性がある」
 として教育委員会などに適切な対応を求めました。
(続く…)

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2006年11月13日

いじめ自殺2

(続き)
image061113.jpg 手紙の調査・分析が進み、豊島区(東京都)で投函された可能性が高いとされると、東京都教育委員会の中村正彦教育長も、今月8日に「いじめを許さず、尊い命を守るために」という緊急アピールを行いました。

 アピールでは、手紙の差出人である子どもに向けて
「どんなことがあっても自らの命を絶ってはいけません。相談する勇気を持ってください。必ず誰かが受け止めてくれることを信じてください」
 と呼びかけています。

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 そのうえで保護者には
「子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください。どれほど、子どもたちがかけがえのないものかを伝えてください」
 と、教員には
「子どもたちを見つめてください。今、子どもたちが何を感じ、何を思っているのかを、しっかりとつかんでください」
 と、学校長には
「すべての教職員が、一丸となって、いじめのない学校づくりを進めてください」
 などと、説いています。
 そして、すべての子どもたちに対しては、次のように述べています。

「みなさんは、いかなる理由があったとしても、自らの命を絶ってはいけません。辛いこと、苦しいことに耐えられなくなったときは、決して一人だけで解決しようとしてはいけません。人間は決して強いものではありませんし、一人で生きられるものではありません。多くの人たちに支えられて成長し生きていくのです。互いに支え合っていくのが人間です。

 困ったときは、家族や周りの人に助けを求めてください。悩みを打ち明けることは、決して恥ずかしいことではありません。あなたが弱いということでもありません。

 みなさんの思いを受け止めることは、わたしたち大人の責任です。大人を頼りにしてください。

 力強く生きてください。素晴らしい人生を送ってください。つらいこと、悲しいこと、苦しいことを乗り越えて素晴らしい人生を送ってください。決して、自らの命を絶ってはいけません。」(東京都教育委員会ホームページより)
(続く…)

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2006年11月16日

いじめ自殺3

 こうした“励まし”のアピールを読んで、みなさんはどう思いますか。

 アピールに書かれているようなことができるならば、自殺する子どもなどいるでしょうか。もし「自分を受け止めてくれる」と信じられる人がいれば、子どもは自然に悩みを打ち明けるはずです。「自分は支えられている」と思えるならば、支えてくれている人に、当然、相談するでしょう。

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 「助けを求めれば救ってくれる人がいる」と信じられるならば、自ら命を絶つ必要などないのです。

 子どもが自殺していくのは、自分のすべてを受け止め、支え、助けてくれるおとなが周りにいないからです。絶望した子どもは、孤独の中で自殺するしかない状況に追い込まれているのです。

 そんな子どもを取り巻く現実と、そうした現実をつくり出している社会の問題について、アピールの真意に迫りつつ、次回から書いていきたいと思います。

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2006年11月21日

道徳や説教で子どもが救えるか?(1/4)

 伊吹文部科学大臣や中村教育長の“励まし”を読んで、私が最初に感じたのは

「この人たちは、子どもが置かれている辛い現実を見ようとしたことがあるのか?」

 という疑問でした。
 1994年11月、愛知県西尾市で当時中学2年生だった大河内清輝君が自殺するという事件が起きました。遺書には、同級生から金銭を要求されたり暴力を受けていたこと、その苦しさを両親にも伝えられず死を選ぶしかなかったこと、などが書かれていました。

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 この事件をきっかけに、いじめが社会問題になりました。当時の与謝野馨文部大臣はいじめの撲滅を訴え、文部省は「いじめ対策緊急会議」を設置しました。
 同会議は、各都道府県教育委員会あてに、緊急アピールや取り組みのチェックポイントを通知。その翌年には「いじめの問題の解決のために当面取るべき方策について」(『当面の方策』)という報告も取りまとめました。

『当面の方策』は、その名前のとおり「当面のこと」だけに注目しました。

 具体的に言うと「なぜいじめが起こるのか」という原因究明や「子どもを自殺に追い込まないために」という抜本的な解決策を考えることはせず、「いじめる側の出席停止や警察への協力要請」という、緊急対策に終始したのです。
(続く…)

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2006年11月24日

道徳や説教で子どもが救えるか?(2/4)

『当面の方策』は、「だれよりもいじめる側が悪い」という認識に立って出来上がっており、「弱い者をいじめることは人間として許されない」と強調しました。

 当時の文部省職員は、緊急対策のみとなった理由を
「受験競争の弊害など、諸説がいわれているが、原因を追及していたら、中教審で3回の論議は必要。教育の基本論に立ち返るのはやめて、取り急ぎどう防ぐかをまとめた」(『教育新聞』95年3月16日付)
 と話しています。

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 以後、確かに統計上は公立学校でのいじめは減りました。『当面の方策』が出された95年のいじめ発生件数は6万96件ですが、05年には2万143件になっています。また、95年に6件あった「いじめを主たる理由とする」自殺件数は、99〜05年までは0件とされてきました(今月になって文部科学省がこの統計を見直し、再調査を開始しています)。

 教育の基本論に立ち返ることなく、いじめの原因を探ることもなく、ただ統計上の発生件数を減らすための対策がどんなものだったのかーー。今、子どもたちは命をかけて教えてくれています。

 私の経験に過ぎないかもしれませんが、子どもの現状に心を痛めるおとなたち、何より子どもたち自身に話を聞いたとき、この10年間で「いじめが減った」と思ったことは、ただの一度もありません。それどころかいじめは、教室に当然あるべき“風景”のようになってしまい、「あってはならないこと」という危機感さえも薄れてきてしまっているというのが実感です。

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2006年11月27日

道徳や説教で子どもが救えるか?(3/4)

image061127.jpg こうした現実を放置、いえ助長してきた官庁の最高責任者でありながら、「世の中は君を放っているわけじゃない」「必ずだれかが受け止めてくれることを信じてください」「素晴らしい人生を送ってください」と、まるで他人事のような口調で言う彼らは、いったいどういう感覚を持った人たちなのでしょうか。

 そもそも、今、死のうとしている子どもに対して、「どんなことがあっても、自らの命を絶ってはいけません」と説くこと自体、理解に苦しみます。
 自らの命を絶ってはいけないことくらい、子どもは百も承知です。命を絶とうとしている子どもだって、できることなら友達と遊び、両親にかわいがられ、将来を夢見たいと望んでいます。1日1日を楽しく、生きていきたいと望んでいます。

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 少し、視点を変えてみてください。
 カウンセリングルームには、アルコール依存症、買い物依存症、摂食障害、暴力・・・さまざまな問題を抱え、苦しむ人たちが訪れます。そうした人たちもみな、「素晴らしい人生を送りたい」と思っています。素晴らしい人生を送るために、アルコールを、ショッピングを、過食(拒食)を、暴力を「やめたい」と願っています。
 でも、その症状を手放すことはとても困難です。頭では「やってはいけない」と分かっていても、心がそうは思えないからです。だれかに「こうしなさい」と言われて、その通に振る舞えるくらいなら、悩む人などいないでしょう。 

 頭で何かを理解することと、心から何かを実感することは違うのです。「〜〜しなさい」と、道徳や説教で規範を教え込めば、正しく行動をする子どもへと「つくりあげることができる」というのは、おとなの傲慢以外の何ものでもありません。子どもは、正しいプログラムを組み込めば、正しく動くロボットのようにはいかないのです。

 たとえば「人をいじめてはいけない」などの“ルール”は教え込むことができます。しかし、それだけでは「いじめられた人が辛い思いをする。だからいじめはやめよう」と考えられる子どもにはなりません。いじめられた人の辛さを考えられるようになるためには、他人の痛みを自分の痛みとして感じられるようになることが必要です。そのためにはまず、いじめる側の子ども自身が、「自分の痛みを分かってくれる人がいた」という体験がなくてはいけません。(続く…)

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