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世界に誇る陸軍大将の文献をしてこうなのですから、いかに日本社会に「幼い頃の人との関わりがその人の一生に影響を与える」という視点が欠落しているのかが分かるような気がします。

つい最近も、それを痛感する記事を読みました。東京板橋区で社員寮管理人であった両親を殺害し、ガス爆発事件(2005年6月)の加害少年(17歳)に関する記事です。
この8月、検察側は、少年に対し、「両親が虐待や不適切な養育をしていたとは到底認められない。いまだに『父親の責任が大きい』と話すなど改悛の情が見受けられない」などとして懲役15年を求刑したのです。

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この事件が起きた当時の報道からは、家族よりもバイクを愛し、少年を“物”のように支配していた暴力的な父親、父親と不和や生活に疲れ「死にたい」とたびたびつぶやいていた母親。そして、そんな父親に怯え、母親の不幸に心を痛めていた哀れな少年の子ども時代が見えてきます。こうした両親の関わりが「不適切な養育ではない」というのなら、「不適切な養育とはいったいどのようなものを指すのか」と聞いてみたくなります。

生まれ落ちた瞬間から、「いつかは両親を殺そう」とか「社会を震撼させる事件を起こそう」などと決意する子どもはいません。暴力で屈服させられた子どもでなければ、「暴力で人を支配しよう」などという発想は生まれようが無く、だれからも助けてもらえない絶望感を経験した子どもでなければ、「社会に復讐しよう」などと思いつくはずはないのです。
誕生後の人(とくに親)との関わり、つまり子ども時代が人格形成に大きな影響を与え、人生を左右するということは明白です。

けれどもそのように考えることは、一般的にはとても難しいようです。
たとえば板橋の事件の後の報道でも、クローズアップされたのは「少年がパソコン好き」だったことや「ホラー映画に関心を持っていた」ことなどでした。

私が『プレジデント Family』(プレジデント社)の「お金に困らない子の育て方」(10月号)という特集の取材を受けたときにも、同様の感想を持ちました。「子どもの問題は親や家族の問題を顕在化させているだけ。問題のある子どもの背景には、必ず“問題のある親”や“問題のある家族”がいる」と話すと、編集者は「どういう親に育てられるかが、子どもの一生にそんなに影響を与えるんですか!」と驚いていました。

「幼い頃からの人との関係性が人格形成に深く影響する」

その事実を、そろそろ社会も認識すべきでしょう。そのうえで「人間の幸福を実現するための社会はどうあるべきか」を真剣に考えなければなりません。
さもなければ、親殺しはますます増え、少年事件は“凶悪化”する一方となるでしょう。
(終わり)

image061011.jpg「子どもが危ない」ーーそんな不安が日本社会に取り憑いています。

8月に内閣府が発表した「子どもの防犯に関する特別世論調査」によると、「子どもの犯罪被害の不安」が「ある」との回答はなんと74%です。
けれども、この不安には実態がありません。不安を感じる理由も「テレビや新聞で、子どもが巻き込まれる事件がよく取り上げられるから」が85.9%とダントツ。「近所に子どもが巻き込まれた事件が発生したから」は12.1%に過ぎません。


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つまり多くの人は「実際に事件は起きていないのに、子どもが巻き込まれる事件が繰り返し報道されるから」不安を感じているわけです。

事実、子どもが被害に遭う事件は増えていません。警察の犯罪統計によると、殺害された小学生数は76年が100人、82年が79人、04年が26人と減少。子どもが減っていることを考慮しても30年間で4分の1、子どもの減少を考慮した人口比でも半分以下まで減っています。

登下校中の子どもが殺害された広島県広島市や栃木県今市市での事件(05年)のショックから、「危ない」との認識が広まっている登下校中においても、殺害された小学生数は92年から06年9月現在までで、わずか11人。1年間にひとりにも満たない数です(06年1月7日付『読売新聞』夕刊のデータに秋田小学生殺人事件の被害者数を加算)。

奈良女児誘拐事件(04年11月)をきっかけに騒がれた幼女を対象とした性犯罪の認知件数も03年をピークに減少しています。なかでも「わいせつ目的略取誘拐」の減りが顕著で、06年度は前年比マイナス34.9%の15件となっています(『平成17年の犯罪情勢』)。(続く…

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image061013.jpg 通常、認知件数は、取り締まりが強化され、報道が増え、世間の関心が集まれば増えるものです。最近の飲酒運転がいい例です。以前から飲酒運転はあったけれど、その取り締まりはずっと少なく、事故が起きても全国版で大きく報道されることはありませんでした。そのため、当然、警察の認知件数は少なく、私たちが気に留めることもあまりなかったのです。

そう考えると、大事件があったにも関わらず、幼女への性犯罪の認知件数が減っているというデータの重みが増します。


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こうした子どもが「家の外で」傷つけられる数と「家の中で」傷つけられる数ーーつまり虐待を受ける子どもの数とを比べてみてください。
警察の資料によると今年1〜6月の児童虐待検挙件数は過去最多の120件です。虐待によって死亡する子どもは、毎年38〜61人ほどで推移しています。子どもが「家の外でだれかに」襲われるよりも、「家の中で保護者に」傷つけられる可能性の方がずっと高いのです。

しかも、本来、最も安心・安全な場所であるはずの家の中で、いちばん大好きな親から繰り返し与えられるダメージは、はかりしれません。見知らぬ他人から受ける一過性の被害よりもずっと大きな傷跡を子どもの心に残します。

「子どもの安全を守る」というのなら、「家の外」よりも、まず「家の中」で起きている問題を解決する方がずっと大切なのです。(続く…

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ところが、児童虐待への取り組みは遅々として進みません。この7月にも福島県で3歳の男の子が虐待死するという痛ましい事件がありましたが、その後も虐待のニュースは絶えることがありせん。

一方、「家の外」での安全対策は急ピッチで進んでいます。国の今年度予算は「子ども安心プロジェクトの新設」に24億円が計上され、地域住民による安全ボランティア「スクールガード」の養成や警察OBによる「スクールガード・リーダー」の拡充が図られました。警察庁による「地域安全安心ステーション」や監視カメラ付きの「スーパー防犯灯」の設置も広がっています。

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各地方自治体や都道府県警察では安全マップづくりに余念がなく、集団登下校や保護者の付き添いも常態化しています。なかには警察官の立ち寄りやガードマン配置に踏み出す学校もあります。子ども用のGPS(全地球方位システム)機能付き携帯電話や子どもの居場所を知らせるメールサービスなども、当たり前のようになってきました。

10月11日は「安心・安全なまちづくりの日」として、警察庁による政府広告が打たれ、地域のパトロールや子どもに防犯ブザーを持たせようという呼びかけが行われていました。私の住んでいる地域では毎日午後2時半になると子どもの安全を呼びかける防災無線が流れます。(続く…

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過剰な「家の外」での安全対策の裏には、国際競争時代に向けた社会への転換に異論を唱える者を排除しようと目論む国と、セキュリティ産業の活性化を図りたい企業との一致した思惑があります。
このような安全対策は「テロとの戦い」などという名で呼ばれることもあり、9.11以降、全世界に広がり、私たちの日常に少しずつ浸透してきています。

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東京メトロ霞ヶ関駅では改札口を通る人全員を撮影して顔認識データと照合する実験が始まり、パスポートは顔認証データが登録されたICパスポートになりました。
世界最小ICチップの試作に成功した日立製作所とセコム、積水ハウスが共同開発した住宅地には、24時間、常駐の警備員がパトロールしています。この住宅地への入り口や公園には監視カメラが設置され、インターネット環境を整えれば自宅にいながら子どもの様子をモニターから見ることができます。また東京都世田谷区では警察の呼びかけで周辺道路まで監視できるカメラを設置する住宅も増えています。

監視カメラの売り上げは10年前の3倍にのぼる2000億円を超えるほどの人気ぶり(05年現在)。静脈や指紋などで本人確認を行うバイオメトリクス商品市場は5年後には4000億円に達する見込みと言われています。

安全マップをつくることで地域に「危険な場所」が生まれ、不審者情報を流すことで怪しそうな人物が目につくようになります。高い塀で囲われた家の中は、風通しが悪くなり外とのつながりも絶たれます。監視カメラが設置されれば、だれかがだれかを見張ることになり、人々の心には疑心暗鬼が生じます。(続く…

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次にはじまるのは異質な者の排除です。いつの時代でも、不安が増大すると地域にとけ込めない“弱者”やみんなと同じように振る舞えない“変わり者”が排除されてきました。たとえば外国人やホームレス、精神障害者などと呼ばれる人たちです。今なら、引きこもりの少年などもその対象になるでしょう。

そうした疎外感が新たな加害者を生むことは、昔から言われてきました。今年2月に滋賀県で起きた、付き添いの保護者に二人の園児が殺された事件からも明らかです。

いったん相互監視と疑心暗鬼の悪循環に陥ってしまうと、そこから抜け出すのは容易ではありません。「安全な共同体の復活」を掲げた防犯活動が疑心暗鬼の増幅に一役買ってしまうこともあります。

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気になるのは、まるでサークル活動でもするかのように嬉々として不審者を捜し回る“善意の人々”です。
その姿は私に、オウム真理教(現アーレフ)元代表・麻原影晃死刑囚の子どもたちを取材した99年に見た、栃木県大田原市や茨城県竜ヶ崎市などの住民を連想させます。

当時、わずか10歳足らずの子どもたちの住居を見張るために監視小屋を建て、夜な夜な酒を飲んで罵声を浴びせ、勢い余って塀を壊し、「悪魔のお前たちに人権はない」と叫んだ住民たち。子どもたちの就学や買い物まで邪魔をし、通学路に「オウムは出て行け」と看板を立てた住民たち。この住民運動に参加しないと「お前もオウムか」と迫った住民たち。子どもたちが出て行った後、住民運動を振り返って「いい思い出がいっぱい出来た」と語った住民たち(『悪魔のお前たちに人権はない! ー学校に行けなかった「麻原影晃の子」たち』社会評論社 273頁)。
そこには、私たちが共同体に望む「みんなで支え合う」雰囲気はみじんも感じられませんでした。

余談ですが、この幼い子どもたちを巻き込んだ異常な住民運動の背景には、破壊活動防止法不適用が決まった後(97年1月)、沈静に向かっていたオウムバッシングの新たな盛り上がりがありました。

火種となったのは、公安調査庁と警察、裁判所、マスコミ、地方行政が一体化してつくりあげた「オウムは怖い」とのイメージです。歯止めがきかないほどにまでふくれあがった「オウムへの住民の不安」を理由に、99年の国会で組織的犯罪対法、犯罪捜査のための通信傍受に関する法律(盗聴法)、住民基本台帳法一部改正(国民総背番号制の導入)などが可決されたことはよく知られています。
そうして日本は、いわゆる監視社会に足を踏み入れたのです。

確かに、子どもたちが幸せに生きられる社会への第一歩になるのなら、それでもいいでしょう。「家の外」を見張り合うことによって、「家の中」も安全になり、子どもがすくすくと成長するなら、窮屈な監視社会も受け入れる価値はあるかもしれません。

けれども、そんなことには絶対になりません。常におとなに見られ、守られ、「他人は信用できない」と教えられて育った子どもたちのツケは、かならず回ってきます。(続く…

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