2006年08月の一覧

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2006年08月03日

子どもの声を国連に届ける会1(1/3)

 今日から「子どもの声を国連に届ける会(「届ける会」)」の子どもたちと合宿です。 
 集合時間は昼の12時。「みんなが起きられる時間」ということで、この時間に決まりました。細かい合宿の内容も不明。話し合わなければいけないことは山ほどありますが、スケジュールも何もかも、いきあたりばったり。唯一決まっているのは、泊まる宿だけです。

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 「届ける会」のメンバーは、2001年11月に日本政府が子どもの権利条約に基づいて国連に提出した第二回政府報告書の内容に疑問を感じて集まった子どもたちです。

 当時、高校1年生だったある女の子は「日本の学校には『体罰はない』とか『子どもは自分の意見を言う機会に恵まれている』とか書かれている政府報告書を見て、『どうして嘘ばっかり書くの?』と思った」と語っていました。

 以来、「届ける会」は国連(スイス・ジュネーブ)で行われる第二回日本政府報告書審査に向け、全国各地の子どもたちと手紙やホームページ、イベントなどを通じて意見を交換。それらをもとに“経済的には恵まれた先進国・日本”の子どもが抱えている悩みや問題などを自分自身の問題と照らし合わせながら考え、まとめ、130ページに及ぶ『子ども報告書』を仕上げました。
 そして、この報告書を携え、2004年1月に国連で開かれた国連審査で自ら英語でプレゼンテーションをしたのです。

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2006年08月07日

「子どもの声を国連に届ける会」1(2/3)

 ・・・このように書くと、いかにも「優秀な子どもたち」という印象を持たれるかもしれませんが、実際には(本人たちがよく言っているように)どこにでもいる普通の子どもたちです。特別な問題意識を持っているとか、勉強ができるとかというわけでもありません。どちらかと言うと、「勉強は苦手」という子の方が多かったように思います。

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 「届ける会」が出来た最初の1年間くらいは「子どもの権利条約って何? 法律?」「国連ってどこにあるの? 外国?」みたいな会話を延々としていました。

 『子ども報告書』をつくると決めた後も、会議の集合時間に全員が集まるなんてことはただの一度もありませんでした。たいがいは集合時間を30分過ぎた頃からぼちぼち集まり始めます。そして、全員が集まったらお菓子を食べながらおしゃべり。「昨日、親にこんなことを言われた」「先生はこんなことをした」「友達にこんな子がいる」などなど、話したいことはつきません。
 肝心の話合いが始まるのは、いつも解散時間が迫った頃。当然、議題は次回に持ち越しです。

 国連での英語のプレゼンテーションも、けして「流ちょうな英語ですらすらと」できたわけではありません。まずは、ひとりひとりがまず日本語で文章を考えることからはじまりました。それを英語の堪能なおとなに英語訳し、マンツーマンで教えてもらうという方法をとりました。
 そのときもスケジュールは超ルーズ。1月の末が審査だというのに、1月に入っても日本語の文章はできあがらず。やきもきしながら待ち、届いた文章を見てみたら長すぎたり、言いたいことが詰まりすぎて意味不明になっていたり・・・。そこからみんなで話合いながら、言葉を削ったり、足したり、整えたりして文章を整えました。(続く…)

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2006年08月11日

「子どもの声を国連に届ける会」1(3/3)

 ようやく英語訳が出来たのは、なんと日本を出発する前日! 英語の特訓はジュネーブに向かう飛行機の中で行われました。
 しかも、メンバーの英語の発音はお世辞にも「上手」とは言えませんでした。こう言ってはなんですが、「とうてい委員の人たちに通じない」感じだったのです。機内では、見かねたオーストラリア人女性が「お手伝いしましょうか」と英語のコーチを申し出てくれたほどです。

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 けれども、「届ける会」の子どもたちには「伝えたい思い」がありました。自ら、虐待や体罰、受験競争、いじめ、不登校などの体験をしてきた子どもたちは、3年もの時間をかけて自らの問題を考えてきていました。

 「子どもだから」と声を奪われた悔しさ。「子どものくせに」と尊重してもらえない悲しさ。何を言っても聞き入れてもらえない絶望感。そんな日本の多くの子どもたちが抱えている声に出せない思いを、自分自身の親、教師、その他の身近なおとな、との関係に重ね、「自分の問題はけして自分ひとりだけの問題ではない。日本で暮らす子どもたちみんなに通じることなんだ」と確信した子どもたちには、「どうしても委員の人たちに分かってもらいたいこと」があったのです。

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2006年08月15日

「子どもの声を国連に届ける会」2(1/6)

 2004年1月に国連「子どもの権利委員会」(At Palais Wilson in Geneva)でプレゼンテーションをした「子どもの声を国連に届ける会(「届ける会」)」のメンバーは8人。会の発足から3年あまりがたち、半分が大学生になっていました。
 本当は8人のプレゼンテーションの全文を掲載したいところですが、かなり長くなってしまうので、エッセンスのみをご紹介させていただきます。

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 プレゼンテーションは、次のような「届ける会」事務局長の山下淳一郎さんの言葉で始まりました。
「『子ども報告書』をつくるなかで、政府報告書からはまったく見えてこない日本の子どもたちの本当の叫びが見えてきました。『経済的に“豊か”とされる日本で、子どもがどんなに息苦しい生き方を強いられているか!』今日はここでそれを発表したいと思います」     

 まずは、一流企業で働き、疲れた父親から暴力を受けて育ったNさんです。Nさんの両親は、Nさんが自分たちの都合のいいように動かないと殴る、罵る、空気のように無視しました。やがて一番好かれたい「親」からうっとうしがられる辛さに耐えられなくなったNさんは「両親の“お人形”」になることを決意しました。

 ところがそんな矢先、さらなる辛い出来事が襲います。父親が突然、過労死したのです。今度は「早くおとなになって母を助けろ」などという「良い子になれ」という世間からのプレッシャーにさらされることになりました。「両親の“お人形”」からは解放されたものの、今度は「世間の“お人形”」にならざるを得なかったのです。Nさんは言います。

「助けはなく、逃げ場もありません。目の前は真っ暗でした。『死ぬしかない』・・・・・私は13の時に自殺未遂をしました。その頃の私は、毎夜、腕や手首を切り続けて涙と血を流していました。睡眠薬を飲んで恐怖などを紛らわせていました。日本には他にも私のような思いをしている子どもがいます。子どもは親の所有物でもなくお人形でもない! 子どもの声を聞いて! 子どもは一人の人格なの! これ以上悲しい子どもが増えちゃいけない!」(続く…)

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2006年08月18日

「子どもの声を国連に届ける会」2(2/6)

 続くTさんが話したのは中学校で「日常茶飯事の体罰」。Tさんは、入学直後に体罰を目撃し、恐怖で「この人達には何も言えない」と思ったそうです。

 友人の多くが体罰のある環境に慣れて疑問を感じなくなっていきました。そして、真夏でも化学繊維を3枚も重ねて着なければならない制服にも、文句ひとつ言わない生徒ばかりのなかで、私服登校を決意した当時を振り返り、こう語りました。

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「集会で倒れても、だれも怖くて『暑い』なんて言えなかった。『みんな我慢してるんだから我慢しろ』と言われるだけ。私服登校をすると教師からの脅しや嫌がらせを受けました。学校に行くのは命がけだったのです。そんな本当の子どもの現状は政府報告書には書いてありません」

 次のSさんは教師が生徒会を操り、生徒の意見をまったく聞こうとしなかったこと。さらに、言うことを聞かないと「悪い子」と決めつけられた高校時代のことを話しました。

「先生に『しょうもない奴』と罵られて暴れたため、退学処分になった生徒がいる。先生は『あいつは早く消えてほしかった』と陰口をたたいていた。退学した子は両親が不仲で中学生時代から先生に無視されていて、どこにも居場所が無かった。『おとなの言うことなんか信用できるかよ』と言って退学していった。私には、彼が暴れたのは『先生達に心の叫びを伝えたかったからではないか』と思えてならない。『言いたいことがあるんなら口で言えばいいじゃないか』と言う先生もいる。でも、言っても先生達は聞いてくれず、生徒のありのままの姿を認めてくれないじゃないか!」(続く…)

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2006年08月22日

「子どもの声を国連に届ける会(3/6)

 Hさんは、学校や社会で傷つき問題を抱えた子どもたちの最後の受け皿になっている定時制高校が、東京都の進める統廃合によって無くなろうとしていることを訴えました。
 自身も小学校でいじめを受け、12歳から4年間を不登校で過ごしたHさんは言います。

「その事を誰にも相談出来ませんでした。学校の中では、他人に自分の弱みを見せては生きていけないからです」

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 そんなHさんが一大決心して選んだのが定時制高校でした。
 不安だらけだった久しぶりの学校生活。でも定時制高校の教師たちは、Hさんの悩みをじっくり聞いてくれました。放課後も職員室に居残って話していて帰宅が遅くなることもよくあったそうです。

「こうしたふれあいを通じて、私は人と関わる勇気を取り戻していきました。人と顔を合わせることにさえ恐怖を感じて、いつもうつむいていた私が、友達と話し、笑いあえるようになっていったのです。そんなかけがえのない場所をつぶささないでください」

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2006年08月29日

「子どもの声を国連に届ける会」2(4/6)

 続いては高校生が政治的な活動を禁じられている現状を語ったTさんです。

 Tさんは、「新聞への投書でさえ、政治活動にあたるとして指導対象にしている学校もある」と話しました。また、ある高校生がイラク反戦運動の際に経験した「ポスターをはがされた」「生徒会宛の手紙を学校が勝手に処分した」などの例を紹介し、こう訴えました。
「そのため生徒は『社会に関心を持ち行動するのはいけないこと』と思うようになっていきます。私たちは社会の一人として政治に関心を持ち、考えを訴えたい。それを禁じる通知(1969年に文部省が出したもの)は即撤回して欲しい」

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 Cさんは、卒業式を契機に突然「子どもだから」「子どものクセに」と言われ、声を奪われてしまった国立二小事件を通して考えたことを話しました。

 事件以前の二小では、行事の内容や装飾品などもすべて子どもと教師、保護者で話し合って決めていました。子どもも、あらゆる話し合いの場に参加していたのです。

「それなのに卒業式当日、私たちにはなんの説明もなく屋上に日の丸があがっていたのです。びっくりしてみんなで校長と教頭に、『なぜ私たちに知らせてくれなかったのですか』と質問しました。すると彼らは私たちの意見を聞こうともせず、『子どもには関係無い』と冷たく突き放しました」

 私たちは日の丸が嫌だったわけではありません。話し合いもないまま、自分たちが主役である卒業式に、自分たちの知らない物が掲げられていたことが悲しかったのです。

「その日、校長や教頭は『子どもは意見を言ってはいけない』という考えだと思い知らされました。そして、世間のおとなやマスコミにも、そういう考えの人が少なく無い事も知りました。でも、それはおかしい。人間は自分の意見を言うことでお互いを分かり合い、成長していくはずです。そういう機会を私たちから奪わないで欲しい」

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