生きるのが怖い少女だった頃を振り返ると、「私はなんと傲慢な人間だったのか」と思います。

「すべてを完璧にこなさなければならない」「けっして誤ってはいけない」「だれから見ても、どこから見ても優れた人間でなくてはダメだ」・・・そんな人間など、この世のどこにも存在しないのに、そんな人間になろうとあがいていたのです。これを傲慢と言わずしてなんと言えばいいのでしょう。

 記憶のページをたどってみると、私が、はじめて斎藤顧問の著書『生きるのが怖い少女たち』に触れたのは10代の終わり頃だったのではないかと思います。
 その頃の私は、自分の能力の限界と現実に直面しながらも、それとはかけ離れた理想や未来を描き、あがいていました。

 自分の人生に自信が持てず、見えない将来におびえ、だれからも必要とされる「特別な人間」になりたがっていました。そんな「特別な人間」でなければ生きている価値が無いと思い、自分自身を責めていました。

 世界を股にかけて活躍している人を見る度に「私がここに生まれ、生きている意味はどこにあるのか」と悩み、紛争地域の話しを聞いては「自分のようなものがのほほんと生き延びていていいのか」などと逡巡していました。

 新年明けましておめでとうございます。

 2006年のスタート時には「いったいいつまで続けられるか」と思っていたこのブログも、おかげさまで10年以上続き、この場を借りて新年のご挨拶をさせていただくのも13回を数えることとなりました。

 そして、今回がIFF・CIAP相談室から私がさせていただく最後のご挨拶となります。

 この世には、「完璧に善である人」も「絶対に悪である人」も存在しません。人間であるからには、善と悪を両方とも持っていますし、発達度合いや置かれた状況にもよりますが、本能的な欲求もあれば、欲求を抑える理性も兼ね備えています。

そのどちらか一方だけをクローズアップしたり、逆に見ないようにしてしまったら、自分を受け入れながら自分らしい人生を生きていくことも、安定した人間関係を築くことも、難しくなります。

仮面舞踏会 2011年3月の東日本大震災のときもそうでした。

「津波がついそこまで来ている」というのに、車の渋滞の列に並び続ける人々、震災後に不足したガソリンや水を買い求めるために、静かに待つ人々。
 そんな日本人の非常時の行動については、今年2月、このブログ「雪の日に思う(3)」にも書きましたが、暴動化してもおかしくない状況でも、節度を守って行動する日本人の姿は、「遠慮深く慎み深い」と、海外メディアでも驚きと感嘆を持って表されていました。

 ハロウィーンのときには、世界各地から来日する人がいるほど大規模化するお祭り騒ぎを繰り広げる日本人と命の危機にさらされたときにさえ慎み深く行動する日本人。

 この両極端ともいえる状態をいったいどんなふうに考えればいいのでしょう。

喧嘩 そうしたなか、年々、渋谷でのハロウィーンの問題がクローズアップされてきました。

 お祭り騒ぎに乗じた盗撮や痴漢行為、ゴミのポイ捨てや飲酒マナーの悪化などなどが指摘されています。
 ここ数年は、10月31日が近づくと渋谷界隈は物々しい数の警察官が警備をし、警察官と仮装姿ではしゃぐ若者が入り乱れる異様な雰囲気に包まれます。

 かつて読んだ小説だったのか、民俗学的な本だったのか、はたまた映画だったのか・・・。具体的な記憶は定かではないのですが、「日頃は隠している、もしくは隠したいと思っている本性を解放する方法は主に二通りある」という話をどこかで耳にしたことがあります。

 その代表例のひとつとして挙げられていたのは、リオのカーニバルでした。リオのカーニバルのなかでも有名なサンバは、露出の高い派手な衣装に身を包み、踊ります。それは日頃は、隠し持っている「もうひとりの自分」を心ゆくまで解放し、放出することにつながるという話でした。

自分を隠し、自分を解放

 そしてもうひとつは、ヴェネツィアのカーニバルです。自分をさらけ出すことで、「もうひとりの自分」を解放するリオのカーニバルに対して、こちらは仮面を付け、自分を隠すことで「もうひとりの自分」を解放します。

 その起源は、中世後期のヨーロッパ宮廷において行われた、寓話的で凝った衣裳による壮麗な行列や、婚礼を祝う誇らしげな行進や、その他宮廷生活における派手な催しや余興で、代表的なものが仮面舞踏会と呼ばれるものだそうです(ウィキペディア)。

 その後、仮面舞踏会はヨーロッパ各地で大流行し、「倫理・道徳を失わせる」「風紀を乱す」などの理由で反対する人や、禁止する統治者がいたほどということですから、貴族を中心に多くの人が仮面舞踏会に興じたということなのでしょう。

日本のハロウィーン

ハロウィン

 ハロウィーンが近づき、オレンジのカボチャや黒と紫のお化けなどが目に付くようになると、なぜか私は必ずこの話を思い出します。

 若者を中心にハロウィーンを楽しむ人が増え、大胆な仮装やびっくりする衣装に身を包み、風貌がよく分からない人を目にすることが増えたせいなのかもしれません。

 本来のハロウィーンは、古代ケルトを起源とするお祭で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事だったそうですが、今ではカボチャをくりぬいてジャック・オー・ランタンをつくって飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々でお菓子をもらったりする行事になりました。
 
 さらに近年の日本では、渋谷を中心に若者が仮装をして夜の街で遊ぶというイメージがすっかり定着しています。

 単純に考えられるのは、文部科学省とスポーツ庁の「通知」に象徴されるように、「自発的」「自由意志」ではないかたちでボランティアをしている人が多いという予測です。つまりソフトな強制力が働いて、ボランティアに行かなければならないという状況があるということです。

 しかし、報道等で受けている印象になってしまいますが、休みのたびに、ときには「受け入れ制限」が出るほどに熱心なボランティアの人たちが、みんな何らかの強制を受けているというふうには見えません。

 ではいったい、どういことなのでしょうか。

「人の役に立ちたい病」?

 誤解を恐れずに私見を述べさせてもらうとしたら、「人の役に立ちたい病」の蔓延ということなのではないかと考えてしまいます。
 もちろん、その気持ちは人が人とつながって生きていくときに必要なものですし、私自身にもあります。だからこそカウンセラーとかセラピストなどと呼ばれる仕事をしているのだろうとも思います。

 その「だれもが持っている」気持ちが突出している人、もしかしたら、日頃の生活の中では生き甲斐や人のために生きている感覚が見いだせない人が増えているということが、このボランティアの急増という現象を生んでいるのかもしれないと、被災者側の意見(迷惑な被災地ボランティアする前に意見を聞いて!アンケート結果あり)を読んでいて思いました。

「迷惑になるような支援はNG」

 上記のサイトには、被災地でのボランティア活動において「①ちゃんと考えて現実的に役に立つ支援のみすべき(迷惑になるような支援はNG)」「②助けになりたい気持ちが大事 (とにかく動くことが大事)」「③どちらとも言えない」のアンケート結果も載っていますが、約8割が①を選んでいました。

 それだけ迷惑になるような支援が多かったということでしょう。つまりそれは、「人の役に立っているはず」という自己満足で動いている人が多いとも言えるのではないでしょうか。

冷たい国に暮らしているからこそ

 前回ご紹介したように、さまざまなデータが「日本は冷たい国である」ことが明らかになっています。そんな社会では、なかなか承認を受けることは難しく、頑張っても頑張っても、ダメだしされることの方が多いでしょう。

 生活のために生き甲斐を捨て、自分を殺して上に従うことを「空気を読む」とか「忖度」と呼び、強要される社会では「自分は社会の役に立っている」と実感できる機会が少なくなっています。

 そんな国だからこそ、逆にボランティアに精を出す人が増えているのではないかと、あまのじゃくな私は考えてみたりしています。

「困っている人を助けたい」「たいへんなときはお互い様」ーーそんな気持ちでいる人がたくさんいるというのなら、それはもちろん素晴らしいことです。

日本は冷たい国

 でも一方で、「日本人は弱者に冷たい国(社会)」であることを示す調査もあります。

 たとえばイギリスのチャリティー団体Charities Aid Foundation (CAF)が毎年公表している世界寄付指数 (World Giving Index)です。人助け、寄付、ボランティアに関する指数があります。
 2014年版の世界寄付指数をもとに、「世界と日本のあたたかさ」を分析した記事(世界で最も他人に冷たい先進国、日本を見つけました。記事中の地図はその指数の値により暖色から寒色に色分けされていますが、日本は見事に真緑。

 つまり冷たい国(社会)であることが分かります。

なぜかボランティアに費やす時間は増加

 とくに人助け指数が135カ国中134位で世界ワースト2位。寄付指数は311があった2011年にピークに達し、以後は下降線です。それにもかかわらず、なぜかボランティアに費やす時間だけが増加傾向という不思議な現象が見て取れますが、総合的な世界寄付指数は90位と下位に位置しています。

 もうひとつは、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人の割合が世界で圧倒的1位という調査(日本人が弱者に異常に厳しいのはなぜなのか?自己責任論と弱者叩きの心理)です。2007年のもので少し古いのですが、衝撃的なのでご紹介したいと思います。

 同調査によると、なんと自己責任の国アメリカよりも「助ける必要は無い」と考えている人が10%以上も多い人のです!!

 最初に、この調査を知ったとき、私はかなりびっくりしました。
 子どもの頃から「日本はおもてなしの国」「親切な国」というふうに教えられてきたはずなのに、実態はまるで違うということになります。

不思議な現象

「寄付や人助けはしない」
「生活に困るのは自己責任」

 それなのに「ボランティアをしよう」という人は増えているという、この不思議な現象を私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。

  さらに森田浩之さんは次のように、記事(「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる)を書き進めています。

「須田善明・女川町長が河北新報のアンケートにこたえたように、これは〈「被災3県五輪」ではない〉のだ。彼の言うように〈観光振興など過剰な期待は方向違い〉と考えるくらいがちょうどいいのかもしれない。
1964年の東京オリンピックは、戦後復興の象徴と言われる。しかし東京都心が整備されただけで、地方との格差が拡大したという側面もある。
2020年大会にも同様の問題がある。オリンピックに向けて再開発やインフラ整備が進み、一極集中が加速している。
しかし1964年大会に比べてさらに厄介なのは、菊地健次郎・多賀城市長が河北新報のアンケートにこたえたように『東京に建設需要が集中することになり、結果として国の予算が被災地に回らなくなる』ことだろう」